生の全体性 / J.クリシュナムルティ


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死はやって来る。そして、その死と言い争うことはできない。「もう少し待ってください」と言うことはできない。死はそこにある。それがやって来るとき、精神は、自分が生き、活力やエネルギーに満ち、生命に満ちていながら、あらゆるものの終焉を迎えることができるだろうか? 人生が葛藤や心配に浪費されていないときには、人はエネルギーや明晰さに満ちている。ここで言う死とは、人が知っているものすべての終焉を意味する。自分の執着、自分の銀行預金、自分の達成したものすべての終焉を意味する。そこには完全なる終焉がある。精神は、生きていながら、なおかつそういう状態に直面することができるだろうか? そうなったら、人は死とは何かという意味のすべてを理解するだろう。

もし<私>という観念にしがみついていたら、すなわち存続しなければならないと信じている<私>、そのなかに高次の意識、至高の意識が存在すると信じている<私>をも含めて、思考によって組み合わされた<私>という観念にしがみついていたら、そのときには、人は生における死とは何かを理解することはできない。

思考は、既知なるもののなかに生きている。それは<既知>の産物である。<既知>からの自由がなければ、とうてい死とは何かを見出すことはできない。その<死>とは、肉体のもつあらゆる根深い習慣やその他すべてのものの終焉、体や名前やその肉体が得たあらゆる記憶をほんとうの自分だと思い込んでしまうことからの決別である。肉体的に死ぬときには、そのすべてを持ち越すことはできない。自分の財産のすべてをそこへ持っていくことはできない。だから、同じ意味で、自分の知っているすべてを、生において終わらせなければならない。ということは、自分はまったく単独であるということである。孤独(ロンリネス)ではなく、単独(アロンネス)である。それは完全に“全体”となった境地にほかならない。

単独(アローン alone) とは全一(オールワン all one)を意味する。

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by yamanomajo | 2017-07-24 20:15 | 言葉

孤独、自然、瞑想、哲学、生命。


by 三浦花心
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