森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 4


なぜわれわれは、こうもむきになって成功を急ぎ、事業に狂奔しなくてはならないのだろうか? ある男の歩調が仲間たちの歩調と合わないとすれば、それは彼がほかの鼓手のリズムを聞いているからであろう。めいめいが自分の耳に聞こえてくる音楽に合わせて歩を進めようではないか。それがどんな旋律であろうと、またどれほど遠くから聞こえてこようと。

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賢人に倣って、貧しさを庭園の香料植物(ハーブ)のように栽培しようではないか。衣服であれ友人であれ、新しいものを手に入れようと、あまりあくせくするべきではない。つねに古いものへと立ち返ろう。世間はちっとも変わりはしない。変わるのはわれわれのほうだ。

仮に私がクモのように、終日、屋根裏部屋の片隅に閉じ込められていたとしても、自分の思想を失わないでいるかぎり、世界は少しも狭くなりはしない。あまりむきになって新境地を拓こうとしたり、いろいろなものの感化力にたやすく翻弄されてはいけない。それではエネルギーを浪費するだけだ。謙遜は暗闇と同じように、天界の光をあらわにしてくれる。また、貧困によって諸君の活動範囲がせばめられてしまい、たとえば本や新聞が買えなくなったとしても、諸君はこのうえなく意味深い、生気あふれる経験の内部に閉じ込められるだけのことである。否応なく、砂糖と澱粉がいちばんたくさん取れる材料を扱うことになるのだ。物質的に低い暮らしをする人も、精神的に高い暮らしをすることによって失うものはなにもない。余分な富をもてば、余分なものが手に入るだけである。魂の必需品をあがなうのに金はいらない。

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私は行列に加わって、ひと目につく場所をこれ見よがしにパレードする気にはなれない。かなうことなら、ぜひ宇宙の「創造者」とともに歩みたいのだ。こんな落ち着きのない、神経質で、騒々しくて、こせこせした世紀に生きるのは気が進まないから、時代が通りすぎてゆくあいだ、物思いにふけりながら、立ちつくすなり座るなりしていたい。人々はいったい何を祝っているのだろうか? 全員がなにかの準備委員会に入り、毎時間、誰かが演説するのを待っている。神はその日の会長にすぎず、議員が神の代弁者というわけだ。

私は、みずから評価し、決断し、自分をもっとも強く、もっとも正しくひきつけるもののほうに向かって行きたい。秤の竿にぶらさがって、自分自身の目方を軽くしようとは思わない。ある状況を勝手に想像するのではなく、それをありのままに受け入れるようにするつもりだ。私がたどることのできるたった一本の、どんな権力も阻むことのできない道をたどって行きたい。

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私は実験によって、少なくとも次のことを学んだ。もし人が、みずからの夢の方向に自信をもって進み、頭に思い描いたとおりの人生を生きようとつとめるならば、ふだんは予想もしなかったほどの成功を収めることができる、ということだ。その人は、あるものは捨ててかえりみなくなり、目に見えない境界線を乗り越えるようになるだろう。新しい、普遍的でより自由な法則が、自分のまわりと内部とにしっかりとうち立てられるだろう。あるいは古い法則が拡大され、もっと自由な意味で自分にとって有利に解釈されるようになり、いわば高次の存在からの認可を得て生きることができるだろう。生活を単純化するにつれて、宇宙の法則は以前ほど複雑に思われなくなり、孤独は孤独でなく、貧乏は貧乏でなく、弱点は弱点でなくなるであろう。たとえ空中楼閣を築いてしまったとしても、その仕事が無駄になるわけではない。もともと楼閣は空中に築くものなのだ。今度はその下に基礎をかためる番である。

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by yamanomajo | 2017-10-28 12:49 | 言葉

孤独、自然、瞑想、哲学、生命。


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