神を待ちのぞむ / シモーヌ・ヴェイユ


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愛国主義というものに私は恐れを抱いております。私の申します愛国主義とは、この地上の祖国に付与されている感情を指しています。この種のいかなる感情も、私は、自分のために望みません。この種のいかなる感情も、その対象が何であれ、私にとって不吉なものだということを知っており、確信をもってそう感じているのです。

聖ルカ福音書にある、この世の諸王国に関してのキリストに対する悪魔の言葉ほど深くうがったことを、誰も言ったことも、書いたことも決してありませんでした。「私は、この権威と国々の栄華とをみんなあなたにあげましょう。なぜなら、これらの権威は私に任せられていて、誰でも好きな人にあげてよいのですから」。その結果、社会的なものは不可避的に悪魔の領域となるのであります。肉は「わたし」と言わせようとし、悪魔は「わたしたち」と言わせようとするのです。あるいは、専制者たちのように、集団的意味を含む「われ」という言葉を言わせるのです。そして、その固有の使命に応じて、悪魔は、聖なるもの、いや聖なるものの代用品の悪しき模倣を作り出すのです。

社会的ということは、ある国に関するあらゆることを意味するのではなく、ただ、集団的諸感情を意味しているのです。

ある環境の中に入ることが許され、「わたしたち」と呼び合うある環境の中に住み、この「わたしたち」の一部分となり、いかなる人間的環境であれ、その中で自分の家にいるように感じることを私は望みません。私はたった一人であり、例外なく、いかなる人間的環境とも無縁で、追放された状態にあることが、私にとっては必要ですし、また私に命じられたことであるという感じがいたします。

・・・

非常に大切な事柄においては、人は障害を飛び越えないのだと思います。じっと必要なだけ長く、それらの障害を見つめます。そして障害が、幻想のもろもろの力から生じたものである場合には、その障害が消え去るまでじっと見つめるのです。障害と私が呼びますものもそれは人が善に向かって踏み出す一歩一歩の段階で克服しなければならない一種の無気力状態とは別個のものであります。障害が消え去ってしまう前に、それを乗り越えようといたしますと、相殺の現象をおかす危険性があります。このことは、一人の男の家から一人の悪魔が去っていったところ、七人の悪魔が戻ってきたという福音書の一節が暗示していると思います。

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by yamanomajo | 2017-12-08 08:18 | 言葉

孤独、自然、瞑想、哲学、生命。


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