カテゴリ:言葉( 41 )

粋に暮らす言葉 / 杉浦日向子


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江戸っ子の基本は三無い。持たない、出世しない、悩まない。

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江戸の人は大人になるということは、あきらめるというのを知るということであって、あきらめないうちは子供だ。あきらめることを知ることによって、どれだけ楽しみが増えるかというふうに言っている。

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こそぎ落していく、背負い込まない、吐いていく、削除していく。そうやって、ぎりぎりの最低限のところまで削り取っていく。命からどれだけすべてのものを出しつくして死のラインまでいきつくか。

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主張があるのは、たいてい野暮です。近代以降は誰しも主張していかないと、アイデンティティーをちゃんと持っていないとダメみたいな、強迫観念がありますが、江戸では敢えて主張しないものに価値を見出すところがあります。

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余分に買って捨てることほど、愚かで恥ずかしい文化はない。捨てるだけの容れ物なんて、もう、はじめから要らない。

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もっと、ずっとシンプルに暮らせるはずなのに、なんでこんなに、生活を武装するほど物を持たなければならなくなったのでしょうか。何を生産するにも、より多く早く安くっていう価値基準を、もう変えないといけない。

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葉をすべて落とした、黒い冬枯れの木に、江戸の粋を見る。蕪村の句の「斧入れて香(か)におどろくや冬こだち」の意気だろう。

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江戸では、頑張るは我を張る、無理を通すという否定的な意味合いで、粋じゃなかった。持って生まれた資質を見極め、浮き沈みしながらも、日々を積み重ねていくことが人生と思っていたようです。

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なんのために生まれて来たのだろう。そんなことを詮索するほど人間はえらくない。三百年も生きれば、すこしはものが解ってくるのだろうけれど、解らせると都合が悪いのか、天命は、百年を越えぬよう設定されているらしい。なんのためでもいい。とりあえず生まれて来たから、いまの生があり、そのうちの死がある。それだけのことだ。

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江戸人は、この、無名の人々の群れです。このような人生を語らず、自我を求めず、出世を望まない暮らし振り、いま、生きているから、とりあえず死ぬまで生きるのだ、という心意気に強く共鳴します。

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何の為に生きているのとか、どこから来てどこへ行くのかなどという果てしない問いは、ごはんをまずくさせます。

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江戸のころには「闘病」という言葉はありませんでした。かわりに「平癒(へいゆ)」と言いました。病とは、外からやって来るものばかりでなく、もともと体に同居していた、ちいさな身内だったのかもしれません。

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死に至る病を宣告されると、「ガビン、何で私だけが何も悪いことしていないのに」。あれが現代人の弱さですね。江戸っ子にとっての死というのは、突然襲ってくる理不尽なものではなくて、日常の中にいつでもある、それが江戸の懐の深さなんです。

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便利は、不健康だ。不便を、克服してゆく過程で、ひとは、ちからをたくわえていく。

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わたしたちはつねに右肩上がりでないといけないという幻想にさいなまれている。でも本来は去年と同じ年収で暮らせる社会のほうが幸せなんです。

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悟りというのは達するものではなくて瞬間であって、悟った瞬間、また俗にまみれていくんですよ。その人が尊いか尊くないかというのは、生涯のうちに何回その悟りの瞬間が得られるか。

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死を原点として、さかさまに世の中を眺めれば、情愛も忠義も滑稽な舞踏(或いは音のないテレビ)のように見えるでしょう。

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江戸の人たちは概して楽に生きて、楽に死んでいったような人が多いですね。つまり、普段、頑張っていないんです。

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頑張って日々を暮らしていると、死の間際まで頑張らないといけないので、「まだ死ねない。なぜいま死ななくちゃいけないんだ」って死に抵抗するわけですけど、らくーに生きてると、らくーに死ねるわけですよね。

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ニコニコと貧乏をしている。江戸はまるで趣味で貧乏をしているようなところだ。

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江戸の寺子屋の教育の基本は、ただひとつ「禮(れい)」でした。禮を尽くす人になれと教え育てたのです。禮とは豊かさを示すと書きます。豊かさとは心の豊かさで、自分自身の心が満ち足りていなければ、他者を敬ったり、許したりできないということです。

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今ですと、知識を身につけるとか、何かを纏う、つまり何かを抱え込むことによって、悩みから抜け出せたり、外敵から身を守ったりするのが普通ですが、困ったときは裸になれ、ほっぽりだせっていうのが、江戸人の方法です。

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二百五十年続いた泰平の世は、言うならば低生産、低消費、低成長の長期安定社会。モノが少なく、江戸の庶民はみんなが貧乏。

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by yamanomajo | 2017-10-07 13:11 | 言葉

キルケゴールの言葉 / セーレン・キルケゴール


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百合と鳥とはあなたの教師であるべきであり、あなたは全く真実に彼らに従い、彼らから学ぶべきであること、すなわち、あなたは百合と鳥のように沈黙すべきであること。

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われわれは百合と鳥とを沈黙の教師として学ぼう、つまり、彼らから沈黙することを学ぼう。

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野の百合と空の鳥は、思い煩っている者たちへの配慮から沈黙をしています。それというのも、誤解はすべて語ることによって、もっと正確に理解されるなら、語ることが、とくに語り合うことが比較を含んでいることによって、生じるものであります。しかし沈黙は、思い煩いを尊重し、ヨブの友人たちのように、思い煩う者を尊敬するのです。

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沈黙をすることを知っている者は誰でも神の子となる、なぜなら、沈黙のうちにこそ、人間の神的な起源へのとり戻された正気があるからである。しかし語る者は人間となる。沈黙をすることを知っている人は何と少ないことだろう。沈黙するとはどういうことなのか、その意味すら解っている人の何と少ないことだろう。

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もし人が心の底から祈るならば、彼には何かが起こるはずです。彼には不思議なことが起こります。彼はその祈りの中で内面的になればなるほど、ますます言葉は少なくなり、ついには全く沈黙するにいたるのです。

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祈ることは、単に沈黙することだけでなく、聴くことでもあります。それゆえ次のようでもあります。祈るということは、自分が語っているのを聴くことではなく、沈黙するにいたることであり、沈黙して、神の語りかけを聴こうと待つようになることであります。

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沈黙とは、一定のはっきりと形をとったあるものではありません。なぜなら、沈黙とは話をしない、ということではないからです。沈黙とは、ちょうど、気持ちのよい部屋の柔らかい照明のようなもの、簡素な部屋の親しみ深さのようなもの、なのです。それは誰も言葉には出さないものですが、確かにそこにあって、慈愛に満ちた力を発しているのです。

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by yamanomajo | 2017-09-30 12:27 | 言葉

ネイティブ・アメリカン 聖なる言葉 / ブラックウルフ・ジョーンズ


瞑想は
思考が終わったところから始まる。

見えない声たちに耳を傾けよ、
池の中のカエル、
空の鳥、
折れる小枝や、
シマリスに。

太陽を見上げよ、
月を、
雲を、星の一族を。
彼らは宇宙の歌を歌い、踊る。
彼らはあなたの心に語りかける。

空の太鼓が宇宙全体に響きわたる。
空の太鼓の振動が星たちをまたたかせる。
月がその影を
大いなる水に投げかけ、
潮を引いたり、満ちたりさせる。

空の太鼓に合わせて踊れ。
夜の歌い手たちを讃えよ。
兄弟なる狼や
姉妹なるヨタカが
合唱するのに交じれ。

感嘆の思いで見上げれば、
空の家族もこちらを見下ろす。

空はあなたを求めている、
あなたが空を求めているように。

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by yamanomajo | 2017-09-11 07:56 | 言葉

生きがいについて / 神谷美恵子 4


それまでそこで埋没して生きてきた社会や集団との間に距離をおき、そこで行われている価値基準をあらためて検討してみると、多くの場合、それはずいぶんいいかげんなものだったことを発見するであろう。習俗によって決められている価値基準にせよ、単に大勢の人が受け入れているから、ということだけで正しいとされていることが多いのではないであろうか。同じ事柄でも、時代が違ったり集団が違ったりすれば、もう違った基準で判断されているではないか。

こういうことで、社会からはじき出され、疎外された人の眼は鋭くその社会でのものの判断の仕方を批判し始める。それは破壊的な過程ではあるが、古い価値基準から解放されるため、それを乗り越えるためには、ぜひ通らなければならない過程である。

いずれの場合にせよ、価値判断の仕方をほんのちょっとずらすだけでも、ものは驚くほど違って見えてくる。健康な人、外観の美しい人が必ずしも人間として価値のある存在とはかぎらない。「教養」や「成功」や社会的地位が人間の価値を決めるものでもない。立派な夫や子を持つ主婦が必ずしも人間として値打ちの高い者とは決まっていない―

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生きがい喪失の苦悩を経た人は、少なくとも一度は皆の住む平和な現実の世界から外へはじき出された人であった。虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがある人である。いま、もしその人が新しい生きがいを発見することによって、新しい世界を見出したとするならば、そこにひとつの新しい視点がある。それだけでも人生が、以前よりも“ほり”が深く見えてくるであろう。もはや彼は簡単にものの感覚的な表面だけを見ることはしないであろう。微笑みの影に潜む苦悩の涙を感じとる眼、体裁のいい言葉の裏にある“へつらい”や虚栄心を見破る眼、虚勢をはろうとする自分を滑稽だと見る眼―そうした心の眼はすべて、いわゆる現実の世界から一歩遠のいたところに身をおく者の眼である。

現実から一歩遠のいたところに身をおく、ということは、生物のなかでも精神能力が分化した人類だけにできることらしい。この能力によって人間はパスカルのいうように、たとえ宇宙に押しつぶされそうになったときでも自分を押しつぶすものが何であるかを知ることができる。動物のように現実に埋没して生きるのではなく、苦しむときには、その苦しむ自分を眺めてみることができる。

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by yamanomajo | 2017-08-27 07:38 | 言葉

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 3


諸君がもし、昼と夜とを歓びをもって迎えることができ、その生活が花々や匂いのよい草のように芳香を放ち、かつまたよりしなやかとなって、星さながらに輝き、いっそう不滅なものに近づいたと感じるならば、それこそ諸君の成功にほかならない。自然界はこぞって諸君を祝福し、また、諸君は刻一刻とみずからを祝福する理由をもつことになるだろう。最大の利益と価値は、かえってもっとも認識されにくいものである。われわれは、そういうものが存在することさえ疑いがちである。あるいはすぐに忘れてしまう。じつはそれらこそ最高の現実なのだ。おそらくもっとも驚嘆すべき、もっとも現実的な事実は、決して人から人へと伝えられることはないであろう。私の日常生活がもたらす真の収穫は、朝と夕べの色合いと同じように、触れることも言葉であらわすこともできない。いわば捕らえられた小さな星屑、つかみ取った虹のひとかけらである。

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頭の仕事にしろ、手の仕事にしろ、花ひらく現在の瞬間を仕事のために犠牲にしたくはないと、たびたび思ったものだ。私は生活に広い余白を残しておきたいのだ。夏の朝など、いつものように水浴をすませると、よく日あたりのいい戸口に座り、マツやヒッコリーやウルシの木に囲まれて、かき乱すものとてない孤独と静寂にひたりながら、日の出から昼頃まで、うっとりと夢想にふけった。あたりでは鳥が歌い、家のなかをはばたきの音も立てずに通り抜けていった。やがて西側の窓にさしこむ日差しや、遠くの街道をゆく旅人の馬車のひびきでふと我に返り、時間の経過に気づくのだった。こうした季節に、私は夜のトウモロコシのように成長し、どんな手の仕事をするよりもはるかによい時間を過ごしていたのである。あれは私の生活から差し引かれた時間などではなく、むしろその分だけ普段よりも多く割りあてられた時間だった。私は東洋人の言う瞑想とか、無為という言葉の意味を悟った。たいていの場合、時間がすぎていくことなど少しも気にならなかった。一日の時間がたつにつれて、かえって仕事の量が減っていくような気さえした。朝がきたかと思うと、たちまち夕べになっている。これといった仕事は何一つやりとげていない。私は鳥のように歌いこそしなかったが、自分のとぎれることのない幸運に無言でほほえんだ。戸口の前のヒッコリーに止まったスズメがさえずるように、私はひとりでくすくす笑ったり、声を押し殺して歌ったりしたが、私の巣のなかから洩れるこうしたさえずりを、あのスズメも聞いていたことだろう。

・・・

楽しみをそとの世界に求めて、社交界や劇場におもむく人々に比べると、私の暮らし方には少なくともひとつの強みがあった。つまり、自分の暮らしそのものが楽しみであり、いつも新鮮さを失わなかったことだ。それはつぎつぎと場面が変わる、終わりのないドラマのようなものだった。もしわれわれが、つねにしっかりと生計を立て、自分が学んできたなかでも最終的にいちばんよいと考える方法で生活を規制してゆくならば、決して倦怠感に悩まされることはないだろう。自己の天分になるべく忠実に生きてゆくならば、刻一刻と新しい展望がひらけてくるはずだ。

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by yamanomajo | 2017-08-22 08:15 | 言葉

魔女 第2集 / 五十嵐大介


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耳を澄ませば
鼓膜が音の振動を受けとめるように、
全身を澄ましたとき、
目や腕や内臓全部。
「想い」や「心」が受けとめるの。
世界のうたう「うた」を。

マラソンのランナーはね、
自分の体と対話しながら走るんだ。
筋肉の収縮と弛緩の摩擦。
ふみしめる大地の密度。
呼吸の温度。
風の湿度。
全てのハーモニーが美しく響き合うように。
うたうように走る。

水泳の選手も、
畑で美しい野菜をつくる人も。
みんな、世界のうたを感じてるのよ。
自分もうたの一部になれるように・・・
世界に、溶け込めるように。

あたしにいわせりゃ、
世界はうたでできている。

世界はうたから生まれたのよ。

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by yamanomajo | 2017-08-13 09:26 | 言葉

生きがいについて / 神谷美恵子 3


死というものに対して恐怖や嫌悪の感情が結びつけられているのは、人が無意識のうちに「死―回避的挙動」に熱中して生きているからで、このような防衛的態勢を一切やめ、死というものを正面から自分の生のなかに取り入れてしまえば、死は案外人間の生の友にさえなってくれるものらしい。

まず死を前にした人がすぐ気がつくことは、自分が丸裸で、なんの支えもなく、死の前に立っている、ということである。現在の何を墓の向こうに持って行けるというのであろうか。一切の現実的なものへの執着がむなしいということに人は気づく。地位や金や名誉などはもちろんのこと、他人への愛着なども、それに固執してももはやどうにもならない。たとえまだ幼い子を残して行かなければならない母親の場合でも、幼いままその子を他人の手に渡して行かなければならないのである。であるから人は死が無理に断ち切るであろうもろもろの絆を、あらかじめ自ら心のなかで断ち切ることを学ぶ。それができれば、その瞬間に身も軽々とする。そして人々との残るわずかな共存期間は、その覚悟ゆえにいっそうその内容の豊かさを増す。

自己の生命に対する防衛的配慮が一切必要でなくなったときにこそ人は最も自由になる。もはやあらゆる虚飾は不要となり、現世で生きていくための功利的な配慮もいらなくなる。自分の本当にしたいこと、本当にしなければならないと思うことだけすればいい。そのときにこそ人は何の気がねもなく、その「生きた挙動」へ向かう。そのなかから驚くほど純粋な喜びが湧き上がりうる。

このような状態にある人の時間意識は確かに普通とは違っているようである。それは「無時間」への飛躍と言えるかもしれない。つまり死の面前で暮らしている人にとっては、時間の持つ密度が飛躍的に大きくなり、一刻一刻の重みが平生とは比較にならないほど増す。もうひとつ、死の面前で生きる人々に特徴的なことは、彼らの眼に物の見え方が変わってくるという点である。それは何よりも、自然の風物の色や形が鮮やかになり、その輝きが増す、という世界相貌の変化としてあらわれる。

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by yamanomajo | 2017-08-11 21:15 | 言葉

チベット 永遠の書 / テオドール・イリオン


人は、若さを保とうと努力する瞬間に歳をとる。何かを自分のものにしておこうと努めるその瞬間に、人はそれを失うことを恐れる。人が何をしようと食べようと、その恐れが人を毒する。恐怖心こそ、人の若さを蝕む元凶なのだ。

あなたはある修行をしたからといって若さを保てるわけではない。若さを保つために何を食べようと行おうと、心が老けていれば体の老いはすぐに始まるものだ。

では、若さとは何だろうか?それは偏見から自由でいること、習慣的考え方、習慣的生き方から自由でいることである。自発的で、愛に富み、熱中している限り、われわれはいつまでも若いのだ。

人生は素晴らしい。人生は輝かしいものだ。めまいを起こすほどの高みと、おぞましいほどの奈落の底との間を人は常に選べる。何事も相対的であり、確定したものは何もない。これを悟るなら、あなたは少年のような心で生きることができるだろう。子供のような心をもって生きるときのみ、人生は生きるに値するものとなるのだ。そうすれば、多くの事柄を知っても優越感を感じなくなる。

結局、とても簡単なことなのだよ。愛することだ。深く、深く愛することだ。そして、愛が自己中心性という毒から自由になっていれば、それだけ深く理解することになるから、あなたは人に対して優越感をもったりしなくなる。真の愛が理解を呼べば、この理解が“霊的傲慢”という恐るべき落とし穴から人を救うのだ。

実在、真理、生命、神、永遠、全てを包み覆う愛―これらはみな、同じ一つのものだよ。真理をみつけることは君にはできない。なぜなら、私的真理を掴んだ瞬間に、それはすでに真理ではなくなっているからだ。われわれは生きている限り、探求し続けなくてはならない。人生が決まり切ったものであれば、そこに何の意味があるだろう?人は人生に揺すぶられれば揺すぶられるほどよいのだ。決して満足に陥ってはいけない。特に自分自身に対して。

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by yamanomajo | 2017-08-07 13:26 | 言葉

今日は死ぬのにもってこいの日 / ナンシー・ウッド


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私は世界の進歩よりも
一匹のアリの旅行に
もっと深い意味を見た。
世界の進歩なんてものは
今やスタートラインのはるか後方へ落伍している。

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by yamanomajo | 2017-07-31 08:25 | 言葉

風の知恵 / デニス・バンクス


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私たちや、私たちを取り巻く環境は皆、自然の一部である。
すべてが命のつながりの中で生きていて、互いが互いを必要としている。
環境を大事にすることは、自分自身を大事にすることなのだ。

鷲やビーバーは、幾千年間同じ形で生をつないでいる。
七世代先の人々のことを考え、自分たちが受け継いだ生き方を子供たちに伝えよう。 

滝の音や燃える火に心を傾けること。
幼い子供に話しかけること。
草木の生命に思いを馳せること。
それらは偉大な精霊と交わることである。

私たちを含めて、すべてが地球の住人なのだ。
空気、太陽、火、水、土―すべては所有することができない。

偉大な精霊を、どうやって所有できるというのだろう。
火は、私たちが生きていくうえで欠かせないものである。
火は暖かさを与えてくれるだけでなく、生きる指針も与えてくれる。
火と対話しよう。

水や雨を大切にしよう。
水は私たちの考えを浄化してくれる。
雨は空気を浄化して、地の渇きをいやしてくれる。
私たちは水や雨なしでは生きられない。

地球にあるものは皆、それぞれ存在する意味と役割をもつ。

自然の音に耳を澄ませば、自然は私たちに色々なことを教えてくれる。

鳥の鳴き声に耳を澄ませば、自分の心がわかってくる。

魚の泳ぎに目を向ければ、自分自身の答えが見つかる。

花には生命を絶やさないようにするという役割がある。

花の美しさや色にもそれぞれの役割がある。

目標に向かう私たちに力を与えてくれ、未来への夢を広げてくれるのである。
目がないから見えないとは限らない。
耳がないから聞こえないとは限らない。
鳥、魚、花、木、すべてが私たちの話を聞いている。

彼らに向かって心を込めて話すこと。

寒い冬の日に、木々が話をするのが聞こえてくる。
私たちや、私たちの未来について話している。
いつでも木々を敬うこと。

木の枝がなければ花は咲かない。
木があってこそ森になり、その美しさも生まれるのだ。
なぜ木を倒したり、森を破壊したりするのだろう。

木は私たちに生命の息吹を与えてくれる。

鷲、鹿、ビーバー、すべてが自分たちの流儀で生きている。
それぞれがビジョンを持っている。
肝心なのは、他人をまねることなく自分自身のビジョンを持つことだ。

夢は私たちにストーリーを語り、ビジョンの源を与えてくれる。
私たちが得たビジョンは、また他の人の夢となる。
人々に良い夢を見せてあげることだ。

ひとりひとりの画家は夢をもっている。
一枚の絵には、何かが隠されている。
画家の語りかけに耳を傾け、自分たちと結びつきのある話を聞こう。

太鼓の音や人々の歌は、私たちの心臓の音だ。
私たちの心臓の音は、いつでも宇宙の鼓動を映している。
歌を歌いたくなくなったり、太鼓を打ちたくなくなれば、
誰も私たちの鼓動に耳を澄まさなくなるだろう。

知恵の種は、私たちの中心にある。
自分自身の中心に、汚れのない思考とよい水を与えること。
そうすれば、閉じた中心が開いてきて、知恵の実を結ぶことだろう。

私たちの未来は過去にある。
時は流れているのだから。

日々くりかえす行いこそが生活であり、文化を伝えることである。

一日一日を生きていくことが、生きる目的なのだ。
日が暮れてしまったら生きる目的を失う、というわけではない。

年を重ねてから、幼いころのことや仲間のことを思い返す。
眼にも胸にも涙が浮かんでくる。

そんな時、人は幸せを感じ、その尊さを知る。

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by yamanomajo | 2017-07-28 11:04 | 言葉

孤独、自然、瞑想、哲学、生命。


by 三浦花心
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