カテゴリ:言葉( 36 )

魔女 第2集 / 五十嵐大介


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耳を澄ませば
鼓膜が音の振動を受けとめるように、
全身を澄ましたとき、
目や腕や内臓全部。
「想い」や「心」が受けとめるの。
世界のうたう「うた」を。

マラソンのランナーはね、
自分の体と対話しながら走るんだ。
筋肉の収縮と弛緩の摩擦。
ふみしめる大地の密度。
呼吸の温度。
風の湿度。
全てのハーモニーが美しく響き合うように。
うたうように走る。

水泳の選手も、
畑で美しい野菜をつくる人も。
みんな、世界のうたを感じてるのよ。
自分もうたの一部になれるように・・・
世界に、溶け込めるように。

あたしにいわせりゃ、
世界はうたでできている。

世界はうたから生まれたのよ。

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by yamanomajo | 2017-08-13 09:26 | 言葉

生きがいについて / 神谷美恵子 3


死というものに対して恐怖や嫌悪の感情が結びつけられているのは、人が無意識のうちに「死―回避的挙動」に熱中して生きているからで、このような防衛的態勢を一切やめ、死というものを正面から自分の生のなかに取り入れてしまえば、死は案外人間の生の友にさえなってくれるものらしい。

まず死を前にした人がすぐ気がつくことは、自分が丸裸で、なんの支えもなく、死の前に立っている、ということである。現在の何を墓の向こうに持って行けるというのであろうか。一切の現実的なものへの執着がむなしいということに人は気づく。地位や金や名誉などはもちろんのこと、他人への愛着なども、それに固執してももはやどうにもならない。たとえまだ幼い子を残して行かなければならない母親の場合でも、幼いままその子を他人の手に渡して行かなければならないのである。であるから人は死が無理に断ち切るであろうもろもろの絆を、あらかじめ自ら心のなかで断ち切ることを学ぶ。それができれば、その瞬間に身も軽々とする。そして人々との残るわずかな共存期間は、その覚悟ゆえにいっそうその内容の豊かさを増す。

自己の生命に対する防衛的配慮が一切必要でなくなったときにこそ人は最も自由になる。もはやあらゆる虚飾は不要となり、現世で生きていくための功利的な配慮もいらなくなる。自分の本当にしたいこと、本当にしなければならないと思うことだけすればいい。そのときにこそ人は何の気がねもなく、その「生きた挙動」へ向かう。そのなかから驚くほど純粋な喜びが湧き上がりうる。

このような状態にある人の時間意識は確かに普通とは違っているようである。それは「無時間」への飛躍と言えるかもしれない。つまり死の面前で暮らしている人にとっては、時間の持つ密度が飛躍的に大きくなり、一刻一刻の重みが平生とは比較にならないほど増す。もうひとつ、死の面前で生きる人々に特徴的なことは、彼らの眼に物の見え方が変わってくるという点である。それは何よりも、自然の風物の色や形が鮮やかになり、その輝きが増す、という世界相貌の変化としてあらわれる。

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by yamanomajo | 2017-08-11 21:15 | 言葉

チベット 永遠の書 / テオドール・イリオン


人は、若さを保とうと努力する瞬間に歳をとる。何かを自分のものにしておこうと努めるその瞬間に、人はそれを失うことを恐れる。人が何をしようと食べようと、その恐れが人を毒する。恐怖心こそ、人の若さを蝕む元凶なのだ。

あなたはある修行をしたからといって若さを保てるわけではない。若さを保つために何を食べようと行おうと、心が老けていれば体の老いはすぐに始まるものだ。

では、若さとは何だろうか?それは偏見から自由でいること、習慣的考え方、習慣的生き方から自由でいることである。自発的で、愛に富み、熱中している限り、われわれはいつまでも若いのだ。

人生は素晴らしい。人生は輝かしいものだ。めまいを起こすほどの高みと、おぞましいほどの奈落の底との間を人は常に選べる。何事も相対的であり、確定したものは何もない。これを悟るなら、あなたは少年のような心で生きることができるだろう。子供のような心をもって生きるときのみ、人生は生きるに値するものとなるのだ。そうすれば、多くの事柄を知っても優越感を感じなくなる。

結局、とても簡単なことなのだよ。愛することだ。深く、深く愛することだ。そして、愛が自己中心性という毒から自由になっていれば、それだけ深く理解することになるから、あなたは人に対して優越感をもったりしなくなる。真の愛が理解を呼べば、この理解が“霊的傲慢”という恐るべき落とし穴から人を救うのだ。

実在、真理、生命、神、永遠、全てを包み覆う愛―これらはみな、同じ一つのものだよ。真理をみつけることは君にはできない。なぜなら、私的真理を掴んだ瞬間に、それはすでに真理ではなくなっているからだ。われわれは生きている限り、探求し続けなくてはならない。人生が決まり切ったものであれば、そこに何の意味があるだろう?人は人生に揺すぶられれば揺すぶられるほどよいのだ。決して満足に陥ってはいけない。特に自分自身に対して。

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by yamanomajo | 2017-08-07 13:26 | 言葉

今日は死ぬのにもってこいの日 / ナンシー・ウッド


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私は世界の進歩よりも
一匹のアリの旅行に
もっと深い意味を見た。
世界の進歩なんてものは
今やスタートラインのはるか後方へ落伍している。

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by yamanomajo | 2017-07-31 08:25 | 言葉

風の知恵 / デニス・バンクス


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私たちや、私たちを取り巻く環境は皆、自然の一部である。
すべてが命のつながりの中で生きていて、互いが互いを必要としている。
環境を大事にすることは、自分自身を大事にすることなのだ。

鷲やビーバーは、幾千年間同じ形で生をつないでいる。
七世代先の人々のことを考え、自分たちが受け継いだ生き方を子供たちに伝えよう。 

滝の音や燃える火に心を傾けること。
幼い子供に話しかけること。
草木の生命に思いを馳せること。
それらは偉大な精霊と交わることである。

私たちを含めて、すべてが地球の住人なのだ。
空気、太陽、火、水、土―すべては所有することができない。

偉大な精霊を、どうやって所有できるというのだろう。
火は、私たちが生きていくうえで欠かせないものである。
火は暖かさを与えてくれるだけでなく、生きる指針も与えてくれる。
火と対話しよう。

水や雨を大切にしよう。
水は私たちの考えを浄化してくれる。
雨は空気を浄化して、地の渇きをいやしてくれる。
私たちは水や雨なしでは生きられない。

地球にあるものは皆、それぞれ存在する意味と役割をもつ。

自然の音に耳を澄ませば、自然は私たちに色々なことを教えてくれる。

鳥の鳴き声に耳を澄ませば、自分の心がわかってくる。

魚の泳ぎに目を向ければ、自分自身の答えが見つかる。

花には生命を絶やさないようにするという役割がある。

花の美しさや色にもそれぞれの役割がある。

目標に向かう私たちに力を与えてくれ、未来への夢を広げてくれるのである。
目がないから見えないとは限らない。
耳がないから聞こえないとは限らない。
鳥、魚、花、木、すべてが私たちの話を聞いている。

彼らに向かって心を込めて話すこと。

寒い冬の日に、木々が話をするのが聞こえてくる。
私たちや、私たちの未来について話している。
いつでも木々を敬うこと。

木の枝がなければ花は咲かない。
木があってこそ森になり、その美しさも生まれるのだ。
なぜ木を倒したり、森を破壊したりするのだろう。

木は私たちに生命の息吹を与えてくれる。

鷲、鹿、ビーバー、すべてが自分たちの流儀で生きている。
それぞれがビジョンを持っている。
肝心なのは、他人をまねることなく自分自身のビジョンを持つことだ。

夢は私たちにストーリーを語り、ビジョンの源を与えてくれる。
私たちが得たビジョンは、また他の人の夢となる。
人々に良い夢を見せてあげることだ。

ひとりひとりの画家は夢をもっている。
一枚の絵には、何かが隠されている。
画家の語りかけに耳を傾け、自分たちと結びつきのある話を聞こう。

太鼓の音や人々の歌は、私たちの心臓の音だ。
私たちの心臓の音は、いつでも宇宙の鼓動を映している。
歌を歌いたくなくなったり、太鼓を打ちたくなくなれば、
誰も私たちの鼓動に耳を澄まさなくなるだろう。

知恵の種は、私たちの中心にある。
自分自身の中心に、汚れのない思考とよい水を与えること。
そうすれば、閉じた中心が開いてきて、知恵の実を結ぶことだろう。

私たちの未来は過去にある。
時は流れているのだから。

日々くりかえす行いこそが生活であり、文化を伝えることである。

一日一日を生きていくことが、生きる目的なのだ。
日が暮れてしまったら生きる目的を失う、というわけではない。

年を重ねてから、幼いころのことや仲間のことを思い返す。
眼にも胸にも涙が浮かんでくる。

そんな時、人は幸せを感じ、その尊さを知る。

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by yamanomajo | 2017-07-28 11:04 | 言葉

生の全体性 / J.クリシュナムルティ


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死はやって来る。そして、その死と言い争うことはできない。「もう少し待ってください」と言うことはできない。死はそこにある。それがやって来るとき、精神は、自分が生き、活力やエネルギーに満ち、生命に満ちていながら、あらゆるものの終焉を迎えることができるだろうか? 人生が葛藤や心配に浪費されていないときには、人はエネルギーや明晰さに満ちている。ここで言う死とは、人が知っているものすべての終焉を意味する。自分の執着、自分の銀行預金、自分の達成したものすべての終焉を意味する。そこには完全なる終焉がある。精神は、生きていながら、なおかつそういう状態に直面することができるだろうか? そうなったら、人は死とは何かという意味のすべてを理解するだろう。

もし<私>という観念にしがみついていたら、すなわち存続しなければならないと信じている<私>、そのなかに高次の意識、至高の意識が存在すると信じている<私>をも含めて、思考によって組み合わされた<私>という観念にしがみついていたら、そのときには、人は生における死とは何かを理解することはできない。

思考は、既知なるもののなかに生きている。それは<既知>の産物である。<既知>からの自由がなければ、とうてい死とは何かを見出すことはできない。その<死>とは、肉体のもつあらゆる根深い習慣やその他すべてのものの終焉、体や名前やその肉体が得たあらゆる記憶をほんとうの自分だと思い込んでしまうことからの決別である。肉体的に死ぬときには、そのすべてを持ち越すことはできない。自分の財産のすべてをそこへ持っていくことはできない。だから、同じ意味で、自分の知っているすべてを、生において終わらせなければならない。ということは、自分はまったく単独であるということである。孤独(ロンリネス)ではなく、単独(アロンネス)である。それは完全に“全体”となった境地にほかならない。

単独(アローン alone) とは全一(オールワン all one)を意味する。

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by yamanomajo | 2017-07-24 20:15 | 言葉

レイム・ディアー / リチャード・アードス


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五十年前、百年前となんら変わらない昔ふうの生き方を、あえて今でも私はしている。自分にはそれが気に入っている。なるべくつつましやかに、可能なかぎり地球に近いところで生きたいと、私は望んでいる。私は植物の側にいたい。自分がメディスンとして用いている草や花のすぐ近くで生きていたいのだ。グレイトスピリットが絶えず面倒を見てくださっているおかげで、そうやって昔のような生活をしても生き抜くことができるし、その気になればどんな生き方でも可能なのだ。だからこそ私は女房とふたりで、電気もない、水道もない、排水施設もない、道もないような、ないないづくしの山奥の小さな山小屋に暮らしている。これはわれわれ夫婦が望んだことだ。われわれの暮らしている質素なログ・キャビンには、なによりも平和がある。われわれ夫婦は、そういう平和のなかで残りの人生をまっとうしたいと考えている。現代の世界から完全に切り離されたところにいたいのだ。今のようなところともおさらばして、もっともっと山の奥に入り込み、そこでど田舎の暮らしをするのも悪くない。そこで、一層自然に近い形で生活するのだ。

野に咲く花々、清らかな水の流れ、青々とした松や杉、こうしたものはみな偉大なる精霊グレイトスピリットによって創られ、そのあつい庇護を受けている。彼はそうしたところへと優しい風を送り、そのことでそれらに生命の呼吸をさせ、それらに水を授け、それらを育む。たとえそれが険しい山であれ、はたまた岩の塊であれ、彼は同じようにお守りくださる。彼が私に目をかけてくださっているおかげで、私は水を与えられ、食べものを与えられ、植物や動物と共に、自らもそのなかのひとつとして、こうやって生きることができるのだ。私はひとりのインディアンとして、自分の人生に残されたすべての日々を、このまま送っていきたい。

しかし私は、このままどこかに閉じ籠って誰とも会いたくないと言っているのではない。今のままでも、どういうわけかたくさんの人が自分で道を見つけて私の山小屋を訪れてくる。私にはこういうやり方が気に入っている。あくまでも私は人々と心が通じ合えるところにはいたいのだ。いろいろなところの人たちと手をつなぎたい。そうやってたとえわずかでも、私たちインディアンの道を、スピリットの道を、その人たちに伝えたい。

だが、と同時に、面倒くさいことから一切足を洗って、さらに山の奥へ、奥へと分け入って、さながら大昔の人たちのように生きてみたいと思わないわけでもない。この期に及んでもなお、私は自分の住み処をもっと山奥に移すつもりでいたりする。そのときには山小屋なんてものすらもういらないかもしれない。こっちが森の一部になればよいのだ。そこには誰の目にも触れたことがないような薬草や、泉や、花、それも非常に小さな花がある。そんな小さな花にじっと見つめられていたら、その花のことを考えているだけで時間なんてあっというまに過ぎていってしまうだろう。花は花でも、人間に手を加えられた黄色や赤の大きな薔薇ではそうはいかない。聞くところによれば最近では黒い薔薇なんてものまで連中の手で作られているらしいが、なにを馬鹿なことをするものではないか。そんなものはすこしも自然ではない。むしろそうしたものは自然に背いている。私はそういう連中が大嫌いだ。

だから年を重ねるごとに、私は自分の隠れ家を奥へ奥へと移す。そうやって山また山のなかにどんどん入っていく。山々はグレイトスピリットがわれわれのために、私のために、創りたもうた土地なのだ。その山々とひとつになり、そこに溶け込んで、徐々に姿を消し、しまいにはすっかりそのなかに消えてしまう。私が望んでいることはそれである。自然のすべてが自分のなかにあり、そしてすべての自然のなかにわずかずつ自分が存在しているのだ。そしてそれこそが本来あるべき姿なのだ。

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by yamanomajo | 2017-07-23 07:18 | 言葉

はなしっぱなし / 五十嵐大介


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「アメフリ」

ザアザアと
音たてている
雨粒のひとつひとつは
みんな
違う音をたてている

雨音がひとつ
空気を切り裂き
音をたてて
落ちてきて

カエデの葉にあたり音たて
はじけた粒が
その茎に あたり
砂に あたり 音たて
また 別の雨粒が

十薬の
蓮の
ぜに苔の音
げんのしょうこの
黒曜石の音
蜘蛛の巣の音
小鷺の音
蝸牛の音
水芭蕉の音
待宵草の音

その音色はいったい
どれだけの数に
なるのだろう

一瞬に
幾億 幾兆の
音がなり

それが
絶え間なく
連続していく

無限の音の
交響曲


いつか自分も
音のひとつになって

溶けて
ザアザアの
一部になっていくような気がする

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by yamanomajo | 2017-07-16 10:35 | 言葉

阿弥陀堂だより / 南木佳士


目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、
春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次へと苗尾を植え、水をやり、
そういうふうに目先のことばかり考えていたら、知らぬ間に96歳になっていました。
目先のことしか見えなかったので、
よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。
それが長寿の秘訣かもしれません。

畑には何でも植えてあります。
ナス、インゲン、キュウリ、トマト、カボチャ、スイカ・・・。
そのとき体が欲しがるものを好きなように食べてきました。
質素なものばかり食べていたのが長寿につながったとしたら、
それはお金がなかったからできたのです。貧乏はありがたいことです。

雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。
山の奥にある御先祖様達の住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、
どちらがどちらだかわからなくなるのが冬です。

春、夏、秋、冬。
はっきりしていた山と里の境が少しずつ消えてゆき、一年がめぐります。
人の一生と同じなのだと、この歳にしてしみじみ気づきました。
お盆になると亡くなった人たちが阿弥陀堂にたくさんやってきます。
迎え火を焚いてお迎えし 眠くなるまでお話しをします。
話しているうちに 自分がこの世の者なのか、あの世の者なのか分らなくなります。
もう少し若かった頃はこんなことはなかったのです。
恐くはありません。
夢のようで このまま醒めなければいいと思ったりします。

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by yamanomajo | 2017-07-14 14:41 | 言葉

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 2


一日中あたりに気をくばり、夜になるとしぶしぶお祈りを唱えて、あやふやなものに身をゆだねる。こうしてわれわれは、自分の生活を後生大事に扱い、変革の可能性を否定しながら、徹頭徹尾追いつめられて生きなくてはならない。これがただひとつの生き方だ、というわけだ。

ところがじつは、ひとつの中心点からいくらでも半径が引けるように、生き方はいくらでもあるのである。あらゆる変革は奇跡と考えることができる。しかもそれは、不断に生起しつつある奇跡である。

・・・

実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている。もし人間が実在の世界だけをしっかりと観察し、迷妄に陥らないようにすれば、人生は─―われわれが知っているものに例えると─―おとぎ話やアラビアンナイトのようになるだろう。必然的なもの、存在する権利のあるものだけを尊重するなら、詩と音楽が通りに鳴り響くだろう。急がず賢明に生きてゆけば、偉大な、価値あるものだけが永遠の絶対的存在であり、卑小な不安や快楽は、実在の影にすぎないことをわれわれは知るだろう。実在するものは常に心楽しく、崇高である。だが、人々は目を閉じて眠りこけ、甘んじて外見に惑わされているために、あらゆるところで型にはまった因習的な日常生活を打ち建て、固定させている。そうした生活は、やはり純然たる幻想を基盤としているのだ。

遊ぶことが生きることにほかならない子供たちは、人生の真の法則や、それとの関わり方を大人よりもよく知っている。ところが大人のほうは、生きるに価する人生を送ることができないくせに、経験――つまり失敗――によって子供たちよりも賢くなったと思い込んでいるのである。

・・・

思うに、われわれが現にこれほどくだらない生活を送っているのは、ものごとの表面をつらぬく洞察力を欠いているからである。われわれは存在するように“見える”ものを、“存在する”ものと思い込んでいる。ある人間がこの町を通り抜けて、実在の姿だけを見るとしたら、コンコードの中心にある「ミル・ダム商店街」などはどこへ消えてしまうことやら。教会、裁判所、刑務所、商店、住宅などを見かけたら、徹底的に凝視することによってどんな正体があらわれるか、口に出して言ってみるとよい。話しているあいだに、それらすべてはこなごなに砕けてしまうだろう。

人々は真理が、太陽系のはずれとか、いちばん遠い星のむこうといった、はるか彼方に存在するか、アダム以前なり、最後の人間のあとに存在すると考えている。永遠の時間には、確かに真実で崇高なものがある。けれども、そうした時間や場所や機会はすべて、いま、ここにあるのだ。神自身もいまこの瞬間、栄光の頂点に達している。あらゆる時代が通り過ぎてゆくあいだも、神がいまほど神聖なときはふたたびめぐってこないだろう。したがってわれわれは、自分をとりまく実在の世界をたえず内部に浸透させ、そこに身を浸すことによってのみ、崇高にして気高いものを理解することができるのである。

・・・

じっくりと腰を据え、意見、偏見、伝統、妄想、外見といった泥沼、それに教会や州はもとより、詩や哲学や宗教に至るまで遠慮なく突き破り、ついに足が“実在”と呼ばれる堅い岩盤にうまく届いたら、これだ、間違いない、と言おうではないか。生であろうと死であろうと、われわれが求めるものは実在だけである。もしわれわれが本当に死にかけているのなら、喉がぜいぜい鳴る音を聞き、手足の先が冷たくなるのを感じ取ろうではないか。もし生きているのなら、なすべき仕事に取りかかろう。

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by yamanomajo | 2017-07-13 07:42 | 言葉

孤独、自然、瞑想、哲学、生命。


by 三浦花心
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