カテゴリ:言葉( 45 )

神を待ちのぞむ / シモーヌ・ヴェイユ


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愛国主義というものに私は恐れを抱いております。私の申します愛国主義とは、この地上の祖国に付与されている感情を指しています。この種のいかなる感情も、私は、自分のために望みません。この種のいかなる感情も、その対象が何であれ、私にとって不吉なものだということを知っており、確信をもってそう感じているのです。

聖ルカ福音書にある、この世の諸王国に関してのキリストに対する悪魔の言葉ほど深くうがったことを、誰も言ったことも、書いたことも決してありませんでした。「私は、この権威と国々の栄華とをみんなあなたにあげましょう。なぜなら、これらの権威は私に任せられていて、誰でも好きな人にあげてよいのですから」。その結果、社会的なものは不可避的に悪魔の領域となるのであります。肉は「わたし」と言わせようとし、悪魔は「わたしたち」と言わせようとするのです。あるいは、専制者たちのように、集団的意味を含む「われ」という言葉を言わせるのです。そして、その固有の使命に応じて、悪魔は、聖なるもの、いや聖なるものの代用品の悪しき模倣を作り出すのです。

社会的ということは、ある国に関するあらゆることを意味するのではなく、ただ、集団的諸感情を意味しているのです。

ある環境の中に入ることが許され、「わたしたち」と呼び合うある環境の中に住み、この「わたしたち」の一部分となり、いかなる人間的環境であれ、その中で自分の家にいるように感じることを私は望みません。私はたった一人であり、例外なく、いかなる人間的環境とも無縁で、追放された状態にあることが、私にとっては必要ですし、また私に命じられたことであるという感じがいたします。

・・・

非常に大切な事柄においては、人は障害を飛び越えないのだと思います。じっと必要なだけ長く、それらの障害を見つめます。そして障害が、幻想のもろもろの力から生じたものである場合には、その障害が消え去るまでじっと見つめるのです。障害と私が呼びますものもそれは人が善に向かって踏み出す一歩一歩の段階で克服しなければならない一種の無気力状態とは別個のものであります。障害が消え去ってしまう前に、それを乗り越えようといたしますと、相殺の現象をおかす危険性があります。このことは、一人の男の家から一人の悪魔が去っていったところ、七人の悪魔が戻ってきたという福音書の一節が暗示していると思います。

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by yamanomajo | 2017-12-08 08:18 | 言葉

はなしっぱなし / 五十嵐大介 2


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「風景」には、風があります
風は動きつづけ 一瞬さえ 止まることをしません

好きな場所の
好きな光
好きな時間

もういちど味わおうと
狙って行っても 同じ風景は 二度となくて

そのかわりに
また別の おもいがけない出会いがある

興味を持ったら
どこでもいいです
気になる場所で10分間
じっとしていてみて下さい

必ず何かが起こります

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by yamanomajo | 2017-11-30 09:31 | 言葉

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 5


このうえなく親切でやさしい、けがれのない、心の励みになる交際相手は、自然界の事物のなかに発見できるものである。「自然」のまっただなかで暮らし、自分の五感をしっかりと失わないでいる人間は、ひどく暗い憂鬱症にとりつかれることなどあり得ない。かつては、健康でけがれのない耳には、どんな嵐も風神アイオロスの音楽のように聞こえたものだった。単純な、勇気のある人間は、なにがあろうとむやみに低俗な悲哀に打ちのめされたりはしない。四季を友として生きるかぎり、私はなにがあろうと人生を重荷と感じることはないだろう。

・・・

突然私は「自然」が――雨だれの音や、家のまわりのすべての音や光景が――とてもやさしい、情け深い交際仲間であることに気づき、たちまち筆舌につくしがたい無限の懐かしさがこみあげてきて、大気のように私を包み、人間が近くにいればなにかと好都合ではないかといった考えはすっかり無意味となってしまい、それ以来、二度と私をわずらわせることはなかった。マツの葉一本一本が共感にあふれて伸び、ふくらみ、友情の手をさし伸べていた。私は、荒々しくもわびしげなものと呼び慣わされている風景にも、自分との近縁関係をありありと感じるようになり、さらにまた、自分との血縁がいちばん近くて、なによりも人間的に思えるものは、人間でも村人でもないことがはっきりわかったので、もはやどんな場所へ行っても、二度と違和感をおぼえることはないだろうと思った。

・・・

私は、大部分の時間をひとりですごすのが健康的だと思っている。相手がいくら立派でも、人とつきあえばすぐに退屈するし、疲れてしまうものだ。私はひとりでいるのが好きだ。孤独ほどつきあいやすい友達には出会ったためしがない。

・・・

人間同士の交際は、一般にあまりにも安っぽすぎる。われわれは互いが益する新しい価値を身につけるためには、ろくに時間を使わなかったくせに、ほとんど間断なく顔を突き合わせている。一日三回、食事だといっては集まり、たがいに鼻もちならないカビの生えた古チーズ――つまりわれわれ自身――をそのつど相手に差し出す。われわれは郵便局や親睦会で、また、毎晩のように炉辺で顔を合わせる。われわれは肩を寄せあって暮らし、たがいに邪魔しあい、たがいにつまづきあう。思うに、こうしておたがいへの尊敬心を失っていくのだ。もっと出会いの回数を減らしたところで、たいせつな、心のこもったつきあいは十分可能であろうに。むしろ私が住んでいる場所のように、一平方マイルにひとりの住人しかいないほうがいい。人間の価値は皮膚にあるのだから、さわってみなくてはわからない、というわけではあるまい。

・・・

私の家のなかには、おおぜいの仲間がいるのである。とくに、訪れる人もいない午前中などは。私の置かれた状況を理解していただくために、二、三の比喩で説明してみよう。私は、けたたましい声で笑うアビやウォールデン湖そのものと同じように、少しも寂しくはない。ほう、あんな孤独な湖にどんな仲間がいるのかね? ところが、ある群青の湖水のなかには、青い陰気な悪魔ではなくて、青い衣の天使が住んでいるのだ。太陽だってひとりである。曇天のときにはふたりに見えることもあるが、ひとりはにせの太陽なのだ。神もひとりである。ところが悪魔となると、ひとりどころか無数の仲間に囲まれ、まさに大軍(レギオン)をなしている。私は牧場に咲く一本のモウズイカやタンポポ、マメの葉やスイバ、アブやマルハナバチと同じように、ちっとも寂しくはない。村の中心を流れるミル・ブルックや風見、北極星、南風、四月のにわか雨、一月の雪解け、新築の家にあらわれる最初のクモなどが寂しくないのと同じように、私も寂しくはないのだ。

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by yamanomajo | 2017-10-29 07:07 | 言葉

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 4


なぜわれわれは、こうもむきになって成功を急ぎ、事業に狂奔しなくてはならないのだろうか? ある男の歩調が仲間たちの歩調と合わないとすれば、それは彼がほかの鼓手のリズムを聞いているからであろう。めいめいが自分の耳に聞こえてくる音楽に合わせて歩を進めようではないか。それがどんな旋律であろうと、またどれほど遠くから聞こえてこようと。

・・・

賢人に倣って、貧しさを庭園の香料植物(ハーブ)のように栽培しようではないか。衣服であれ友人であれ、新しいものを手に入れようと、あまりあくせくするべきではない。つねに古いものへと立ち返ろう。世間はちっとも変わりはしない。変わるのはわれわれのほうだ。

仮に私がクモのように、終日、屋根裏部屋の片隅に閉じ込められていたとしても、自分の思想を失わないでいるかぎり、世界は少しも狭くなりはしない。あまりむきになって新境地を拓こうとしたり、いろいろなものの感化力にたやすく翻弄されてはいけない。それではエネルギーを浪費するだけだ。謙遜は暗闇と同じように、天界の光をあらわにしてくれる。また、貧困によって諸君の活動範囲がせばめられてしまい、たとえば本や新聞が買えなくなったとしても、諸君はこのうえなく意味深い、生気あふれる経験の内部に閉じ込められるだけのことである。否応なく、砂糖と澱粉がいちばんたくさん取れる材料を扱うことになるのだ。物質的に低い暮らしをする人も、精神的に高い暮らしをすることによって失うものはなにもない。余分な富をもてば、余分なものが手に入るだけである。魂の必需品をあがなうのに金はいらない。

・・・

私は行列に加わって、ひと目につく場所をこれ見よがしにパレードする気にはなれない。かなうことなら、ぜひ宇宙の「創造者」とともに歩みたいのだ。こんな落ち着きのない、神経質で、騒々しくて、こせこせした世紀に生きるのは気が進まないから、時代が通りすぎてゆくあいだ、物思いにふけりながら、立ちつくすなり座るなりしていたい。人々はいったい何を祝っているのだろうか? 全員がなにかの準備委員会に入り、毎時間、誰かが演説するのを待っている。神はその日の会長にすぎず、議員が神の代弁者というわけだ。

私は、みずから評価し、決断し、自分をもっとも強く、もっとも正しくひきつけるもののほうに向かって行きたい。秤の竿にぶらさがって、自分自身の目方を軽くしようとは思わない。ある状況を勝手に想像するのではなく、それをありのままに受け入れるようにするつもりだ。私がたどることのできるたった一本の、どんな権力も阻むことのできない道をたどって行きたい。

・・・

私は実験によって、少なくとも次のことを学んだ。もし人が、みずからの夢の方向に自信をもって進み、頭に思い描いたとおりの人生を生きようとつとめるならば、ふだんは予想もしなかったほどの成功を収めることができる、ということだ。その人は、あるものは捨ててかえりみなくなり、目に見えない境界線を乗り越えるようになるだろう。新しい、普遍的でより自由な法則が、自分のまわりと内部とにしっかりとうち立てられるだろう。あるいは古い法則が拡大され、もっと自由な意味で自分にとって有利に解釈されるようになり、いわば高次の存在からの認可を得て生きることができるだろう。生活を単純化するにつれて、宇宙の法則は以前ほど複雑に思われなくなり、孤独は孤独でなく、貧乏は貧乏でなく、弱点は弱点でなくなるであろう。たとえ空中楼閣を築いてしまったとしても、その仕事が無駄になるわけではない。もともと楼閣は空中に築くものなのだ。今度はその下に基礎をかためる番である。

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by yamanomajo | 2017-10-28 12:49 | 言葉

粋に暮らす言葉 / 杉浦日向子


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江戸っ子の基本は三無い。持たない、出世しない、悩まない。

・・・

江戸の人は大人になるということは、あきらめるというのを知るということであって、あきらめないうちは子供だ。あきらめることを知ることによって、どれだけ楽しみが増えるかというふうに言っている。

・・・

こそぎ落していく、背負い込まない、吐いていく、削除していく。そうやって、ぎりぎりの最低限のところまで削り取っていく。命からどれだけすべてのものを出しつくして死のラインまでいきつくか。

・・・

主張があるのは、たいてい野暮です。近代以降は誰しも主張していかないと、アイデンティティーをちゃんと持っていないとダメみたいな、強迫観念がありますが、江戸では敢えて主張しないものに価値を見出すところがあります。

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余分に買って捨てることほど、愚かで恥ずかしい文化はない。捨てるだけの容れ物なんて、もう、はじめから要らない。

・・・

もっと、ずっとシンプルに暮らせるはずなのに、なんでこんなに、生活を武装するほど物を持たなければならなくなったのでしょうか。何を生産するにも、より多く早く安くっていう価値基準を、もう変えないといけない。

・・・

葉をすべて落とした、黒い冬枯れの木に、江戸の粋を見る。蕪村の句の「斧入れて香(か)におどろくや冬こだち」の意気だろう。

・・・

江戸では、頑張るは我を張る、無理を通すという否定的な意味合いで、粋じゃなかった。持って生まれた資質を見極め、浮き沈みしながらも、日々を積み重ねていくことが人生と思っていたようです。

・・・

なんのために生まれて来たのだろう。そんなことを詮索するほど人間はえらくない。三百年も生きれば、すこしはものが解ってくるのだろうけれど、解らせると都合が悪いのか、天命は、百年を越えぬよう設定されているらしい。なんのためでもいい。とりあえず生まれて来たから、いまの生があり、そのうちの死がある。それだけのことだ。

・・・

江戸人は、この、無名の人々の群れです。このような人生を語らず、自我を求めず、出世を望まない暮らし振り、いま、生きているから、とりあえず死ぬまで生きるのだ、という心意気に強く共鳴します。

・・・

何の為に生きているのとか、どこから来てどこへ行くのかなどという果てしない問いは、ごはんをまずくさせます。

・・・

江戸のころには「闘病」という言葉はありませんでした。かわりに「平癒(へいゆ)」と言いました。病とは、外からやって来るものばかりでなく、もともと体に同居していた、ちいさな身内だったのかもしれません。

・・・

死に至る病を宣告されると、「ガビン、何で私だけが何も悪いことしていないのに」。あれが現代人の弱さですね。江戸っ子にとっての死というのは、突然襲ってくる理不尽なものではなくて、日常の中にいつでもある、それが江戸の懐の深さなんです。

・・・

便利は、不健康だ。不便を、克服してゆく過程で、ひとは、ちからをたくわえていく。

・・・

わたしたちはつねに右肩上がりでないといけないという幻想にさいなまれている。でも本来は去年と同じ年収で暮らせる社会のほうが幸せなんです。

・・・

悟りというのは達するものではなくて瞬間であって、悟った瞬間、また俗にまみれていくんですよ。その人が尊いか尊くないかというのは、生涯のうちに何回その悟りの瞬間が得られるか。

・・・

死を原点として、さかさまに世の中を眺めれば、情愛も忠義も滑稽な舞踏(或いは音のないテレビ)のように見えるでしょう。

・・・

江戸の人たちは概して楽に生きて、楽に死んでいったような人が多いですね。つまり、普段、頑張っていないんです。

・・・

頑張って日々を暮らしていると、死の間際まで頑張らないといけないので、「まだ死ねない。なぜいま死ななくちゃいけないんだ」って死に抵抗するわけですけど、らくーに生きてると、らくーに死ねるわけですよね。

・・・

ニコニコと貧乏をしている。江戸はまるで趣味で貧乏をしているようなところだ。

・・・

江戸の寺子屋の教育の基本は、ただひとつ「禮(れい)」でした。禮を尽くす人になれと教え育てたのです。禮とは豊かさを示すと書きます。豊かさとは心の豊かさで、自分自身の心が満ち足りていなければ、他者を敬ったり、許したりできないということです。

・・・

今ですと、知識を身につけるとか、何かを纏う、つまり何かを抱え込むことによって、悩みから抜け出せたり、外敵から身を守ったりするのが普通ですが、困ったときは裸になれ、ほっぽりだせっていうのが、江戸人の方法です。

・・・

二百五十年続いた泰平の世は、言うならば低生産、低消費、低成長の長期安定社会。モノが少なく、江戸の庶民はみんなが貧乏。

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by yamanomajo | 2017-10-07 13:11 | 言葉

キルケゴールの言葉 / セーレン・キルケゴール


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百合と鳥とはあなたの教師であるべきであり、あなたは全く真実に彼らに従い、彼らから学ぶべきであること、すなわち、あなたは百合と鳥のように沈黙すべきであること。

・・・

われわれは百合と鳥とを沈黙の教師として学ぼう、つまり、彼らから沈黙することを学ぼう。

・・・

野の百合と空の鳥は、思い煩っている者たちへの配慮から沈黙をしています。それというのも、誤解はすべて語ることによって、もっと正確に理解されるなら、語ることが、とくに語り合うことが比較を含んでいることによって、生じるものであります。しかし沈黙は、思い煩いを尊重し、ヨブの友人たちのように、思い煩う者を尊敬するのです。

・・・

沈黙をすることを知っている者は誰でも神の子となる、なぜなら、沈黙のうちにこそ、人間の神的な起源へのとり戻された正気があるからである。しかし語る者は人間となる。沈黙をすることを知っている人は何と少ないことだろう。沈黙するとはどういうことなのか、その意味すら解っている人の何と少ないことだろう。

・・・

もし人が心の底から祈るならば、彼には何かが起こるはずです。彼には不思議なことが起こります。彼はその祈りの中で内面的になればなるほど、ますます言葉は少なくなり、ついには全く沈黙するにいたるのです。

・・・

祈ることは、単に沈黙することだけでなく、聴くことでもあります。それゆえ次のようでもあります。祈るということは、自分が語っているのを聴くことではなく、沈黙するにいたることであり、沈黙して、神の語りかけを聴こうと待つようになることであります。

・・・

沈黙とは、一定のはっきりと形をとったあるものではありません。なぜなら、沈黙とは話をしない、ということではないからです。沈黙とは、ちょうど、気持ちのよい部屋の柔らかい照明のようなもの、簡素な部屋の親しみ深さのようなもの、なのです。それは誰も言葉には出さないものですが、確かにそこにあって、慈愛に満ちた力を発しているのです。

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by yamanomajo | 2017-09-30 12:27 | 言葉

ネイティブ・アメリカン 聖なる言葉 / ブラックウルフ・ジョーンズ


瞑想は
思考が終わったところから始まる。

見えない声たちに耳を傾けよ、
池の中のカエル、
空の鳥、
折れる小枝や、
シマリスに。

太陽を見上げよ、
月を、
雲を、星の一族を。
彼らは宇宙の歌を歌い、踊る。
彼らはあなたの心に語りかける。

空の太鼓が宇宙全体に響きわたる。
空の太鼓の振動が星たちをまたたかせる。
月がその影を
大いなる水に投げかけ、
潮を引いたり、満ちたりさせる。

空の太鼓に合わせて踊れ。
夜の歌い手たちを讃えよ。
兄弟なる狼や
姉妹なるヨタカが
合唱するのに交じれ。

感嘆の思いで見上げれば、
空の家族もこちらを見下ろす。

空はあなたを求めている、
あなたが空を求めているように。

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by yamanomajo | 2017-09-11 07:56 | 言葉

生きがいについて / 神谷美恵子 4


それまでそこで埋没して生きてきた社会や集団との間に距離をおき、そこで行われている価値基準をあらためて検討してみると、多くの場合、それはずいぶんいいかげんなものだったことを発見するであろう。習俗によって決められている価値基準にせよ、単に大勢の人が受け入れているから、ということだけで正しいとされていることが多いのではないであろうか。同じ事柄でも、時代が違ったり集団が違ったりすれば、もう違った基準で判断されているではないか。

こういうことで、社会からはじき出され、疎外された人の眼は鋭くその社会でのものの判断の仕方を批判し始める。それは破壊的な過程ではあるが、古い価値基準から解放されるため、それを乗り越えるためには、ぜひ通らなければならない過程である。

いずれの場合にせよ、価値判断の仕方をほんのちょっとずらすだけでも、ものは驚くほど違って見えてくる。健康な人、外観の美しい人が必ずしも人間として価値のある存在とはかぎらない。「教養」や「成功」や社会的地位が人間の価値を決めるものでもない。立派な夫や子を持つ主婦が必ずしも人間として値打ちの高い者とは決まっていない―

・・・

生きがい喪失の苦悩を経た人は、少なくとも一度は皆の住む平和な現実の世界から外へはじき出された人であった。虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがある人である。いま、もしその人が新しい生きがいを発見することによって、新しい世界を見出したとするならば、そこにひとつの新しい視点がある。それだけでも人生が、以前よりも“ほり”が深く見えてくるであろう。もはや彼は簡単にものの感覚的な表面だけを見ることはしないであろう。微笑みの影に潜む苦悩の涙を感じとる眼、体裁のいい言葉の裏にある“へつらい”や虚栄心を見破る眼、虚勢をはろうとする自分を滑稽だと見る眼―そうした心の眼はすべて、いわゆる現実の世界から一歩遠のいたところに身をおく者の眼である。

現実から一歩遠のいたところに身をおく、ということは、生物のなかでも精神能力が分化した人類だけにできることらしい。この能力によって人間はパスカルのいうように、たとえ宇宙に押しつぶされそうになったときでも自分を押しつぶすものが何であるかを知ることができる。動物のように現実に埋没して生きるのではなく、苦しむときには、その苦しむ自分を眺めてみることができる。

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by yamanomajo | 2017-08-27 07:38 | 言葉

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 3


諸君がもし、昼と夜とを歓びをもって迎えることができ、その生活が花々や匂いのよい草のように芳香を放ち、かつまたよりしなやかとなって、星さながらに輝き、いっそう不滅なものに近づいたと感じるならば、それこそ諸君の成功にほかならない。自然界はこぞって諸君を祝福し、また、諸君は刻一刻とみずからを祝福する理由をもつことになるだろう。最大の利益と価値は、かえってもっとも認識されにくいものである。われわれは、そういうものが存在することさえ疑いがちである。あるいはすぐに忘れてしまう。じつはそれらこそ最高の現実なのだ。おそらくもっとも驚嘆すべき、もっとも現実的な事実は、決して人から人へと伝えられることはないであろう。私の日常生活がもたらす真の収穫は、朝と夕べの色合いと同じように、触れることも言葉であらわすこともできない。いわば捕らえられた小さな星屑、つかみ取った虹のひとかけらである。

・・・

頭の仕事にしろ、手の仕事にしろ、花ひらく現在の瞬間を仕事のために犠牲にしたくはないと、たびたび思ったものだ。私は生活に広い余白を残しておきたいのだ。夏の朝など、いつものように水浴をすませると、よく日あたりのいい戸口に座り、マツやヒッコリーやウルシの木に囲まれて、かき乱すものとてない孤独と静寂にひたりながら、日の出から昼頃まで、うっとりと夢想にふけった。あたりでは鳥が歌い、家のなかをはばたきの音も立てずに通り抜けていった。やがて西側の窓にさしこむ日差しや、遠くの街道をゆく旅人の馬車のひびきでふと我に返り、時間の経過に気づくのだった。こうした季節に、私は夜のトウモロコシのように成長し、どんな手の仕事をするよりもはるかによい時間を過ごしていたのである。あれは私の生活から差し引かれた時間などではなく、むしろその分だけ普段よりも多く割りあてられた時間だった。私は東洋人の言う瞑想とか、無為という言葉の意味を悟った。たいていの場合、時間がすぎていくことなど少しも気にならなかった。一日の時間がたつにつれて、かえって仕事の量が減っていくような気さえした。朝がきたかと思うと、たちまち夕べになっている。これといった仕事は何一つやりとげていない。私は鳥のように歌いこそしなかったが、自分のとぎれることのない幸運に無言でほほえんだ。戸口の前のヒッコリーに止まったスズメがさえずるように、私はひとりでくすくす笑ったり、声を押し殺して歌ったりしたが、私の巣のなかから洩れるこうしたさえずりを、あのスズメも聞いていたことだろう。

・・・

楽しみをそとの世界に求めて、社交界や劇場におもむく人々に比べると、私の暮らし方には少なくともひとつの強みがあった。つまり、自分の暮らしそのものが楽しみであり、いつも新鮮さを失わなかったことだ。それはつぎつぎと場面が変わる、終わりのないドラマのようなものだった。もしわれわれが、つねにしっかりと生計を立て、自分が学んできたなかでも最終的にいちばんよいと考える方法で生活を規制してゆくならば、決して倦怠感に悩まされることはないだろう。自己の天分になるべく忠実に生きてゆくならば、刻一刻と新しい展望がひらけてくるはずだ。

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by yamanomajo | 2017-08-22 08:15 | 言葉

魔女 第2集 / 五十嵐大介


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耳を澄ませば
鼓膜が音の振動を受けとめるように、
全身を澄ましたとき、
目や腕や内臓全部。
「想い」や「心」が受けとめるの。
世界のうたう「うた」を。

マラソンのランナーはね、
自分の体と対話しながら走るんだ。
筋肉の収縮と弛緩の摩擦。
ふみしめる大地の密度。
呼吸の温度。
風の湿度。
全てのハーモニーが美しく響き合うように。
うたうように走る。

水泳の選手も、
畑で美しい野菜をつくる人も。
みんな、世界のうたを感じてるのよ。
自分もうたの一部になれるように・・・
世界に、溶け込めるように。

あたしにいわせりゃ、
世界はうたでできている。

世界はうたから生まれたのよ。

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by yamanomajo | 2017-08-13 09:26 | 言葉

孤独、自然、瞑想、哲学、生命。


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