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生きがいについて / 神谷美恵子 4


それまでそこで埋没して生きてきた社会や集団との間に距離をおき、そこで行われている価値基準をあらためて検討してみると、多くの場合、それはずいぶんいいかげんなものだったことを発見するであろう。習俗によって決められている価値基準にせよ、単に大勢の人が受け入れているから、ということだけで正しいとされていることが多いのではないであろうか。同じ事柄でも、時代が違ったり集団が違ったりすれば、もう違った基準で判断されているではないか。

こういうことで、社会からはじき出され、疎外された人の眼は鋭くその社会でのものの判断の仕方を批判し始める。それは破壊的な過程ではあるが、古い価値基準から解放されるため、それを乗り越えるためには、ぜひ通らなければならない過程である。

いずれの場合にせよ、価値判断の仕方をほんのちょっとずらすだけでも、ものは驚くほど違って見えてくる。健康な人、外観の美しい人が必ずしも人間として価値のある存在とはかぎらない。「教養」や「成功」や社会的地位が人間の価値を決めるものでもない。立派な夫や子を持つ主婦が必ずしも人間として値打ちの高い者とは決まっていない―

・・・

生きがい喪失の苦悩を経た人は、少なくとも一度は皆の住む平和な現実の世界から外へはじき出された人であった。虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがある人である。いま、もしその人が新しい生きがいを発見することによって、新しい世界を見出したとするならば、そこにひとつの新しい視点がある。それだけでも人生が、以前よりも“ほり”が深く見えてくるであろう。もはや彼は簡単にものの感覚的な表面だけを見ることはしないであろう。微笑みの影に潜む苦悩の涙を感じとる眼、体裁のいい言葉の裏にある“へつらい”や虚栄心を見破る眼、虚勢をはろうとする自分を滑稽だと見る眼―そうした心の眼はすべて、いわゆる現実の世界から一歩遠のいたところに身をおく者の眼である。

現実から一歩遠のいたところに身をおく、ということは、生物のなかでも精神能力が分化した人類だけにできることらしい。この能力によって人間はパスカルのいうように、たとえ宇宙に押しつぶされそうになったときでも自分を押しつぶすものが何であるかを知ることができる。動物のように現実に埋没して生きるのではなく、苦しむときには、その苦しむ自分を眺めてみることができる。

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by yamanomajo | 2017-08-27 07:38 | 言葉

雲が人を見ている


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by yamanomajo | 2017-08-25 20:46 | 瞑想

大地の波


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by yamanomajo | 2017-08-24 20:28 | 瞑想

自然農畑 / 8月上旬~中旬


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by yamanomajo | 2017-08-22 20:30 | 自然農

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 3


諸君がもし、昼と夜とを歓びをもって迎えることができ、その生活が花々や匂いのよい草のように芳香を放ち、かつまたよりしなやかとなって、星さながらに輝き、いっそう不滅なものに近づいたと感じるならば、それこそ諸君の成功にほかならない。自然界はこぞって諸君を祝福し、また、諸君は刻一刻とみずからを祝福する理由をもつことになるだろう。最大の利益と価値は、かえってもっとも認識されにくいものである。われわれは、そういうものが存在することさえ疑いがちである。あるいはすぐに忘れてしまう。じつはそれらこそ最高の現実なのだ。おそらくもっとも驚嘆すべき、もっとも現実的な事実は、決して人から人へと伝えられることはないであろう。私の日常生活がもたらす真の収穫は、朝と夕べの色合いと同じように、触れることも言葉であらわすこともできない。いわば捕らえられた小さな星屑、つかみ取った虹のひとかけらである。

・・・

頭の仕事にしろ、手の仕事にしろ、花ひらく現在の瞬間を仕事のために犠牲にしたくはないと、たびたび思ったものだ。私は生活に広い余白を残しておきたいのだ。夏の朝など、いつものように水浴をすませると、よく日あたりのいい戸口に座り、マツやヒッコリーやウルシの木に囲まれて、かき乱すものとてない孤独と静寂にひたりながら、日の出から昼頃まで、うっとりと夢想にふけった。あたりでは鳥が歌い、家のなかをはばたきの音も立てずに通り抜けていった。やがて西側の窓にさしこむ日差しや、遠くの街道をゆく旅人の馬車のひびきでふと我に返り、時間の経過に気づくのだった。こうした季節に、私は夜のトウモロコシのように成長し、どんな手の仕事をするよりもはるかによい時間を過ごしていたのである。あれは私の生活から差し引かれた時間などではなく、むしろその分だけ普段よりも多く割りあてられた時間だった。私は東洋人の言う瞑想とか、無為という言葉の意味を悟った。たいていの場合、時間がすぎていくことなど少しも気にならなかった。一日の時間がたつにつれて、かえって仕事の量が減っていくような気さえした。朝がきたかと思うと、たちまち夕べになっている。これといった仕事は何一つやりとげていない。私は鳥のように歌いこそしなかったが、自分のとぎれることのない幸運に無言でほほえんだ。戸口の前のヒッコリーに止まったスズメがさえずるように、私はひとりでくすくす笑ったり、声を押し殺して歌ったりしたが、私の巣のなかから洩れるこうしたさえずりを、あのスズメも聞いていたことだろう。

・・・

楽しみをそとの世界に求めて、社交界や劇場におもむく人々に比べると、私の暮らし方には少なくともひとつの強みがあった。つまり、自分の暮らしそのものが楽しみであり、いつも新鮮さを失わなかったことだ。それはつぎつぎと場面が変わる、終わりのないドラマのようなものだった。もしわれわれが、つねにしっかりと生計を立て、自分が学んできたなかでも最終的にいちばんよいと考える方法で生活を規制してゆくならば、決して倦怠感に悩まされることはないだろう。自己の天分になるべく忠実に生きてゆくならば、刻一刻と新しい展望がひらけてくるはずだ。

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by yamanomajo | 2017-08-22 08:15 | 言葉

真実 / 竹内てるよ


「真実」

自分をうそつきに落とす位ならば
むしろ いさぎよく死のう
社会は 真実を生きようとするものに
全身の敗北 これ一つを残した

悲嘆は単なる身の上の不合理ではない
貧乏や 病苦を泣いている時代はすぎた
常に私は
信ずるみちにひたむきである

たとえそのことのために
誰にすてられても
未来をもたない信頼
進展のまえにしりごみする友情
そんなものは 要らない

負けるな! 
私は天真の人間を感じながら
幸いにも 常に 確信をもつ
正しいみちを生きてゆくことの自負に
心よ 一切を超克しよう

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by yamanomajo | 2017-08-19 20:39 |

「聴く」という奇跡



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by yamanomajo | 2017-08-17 09:55 | 記事

魔女 第2集 / 五十嵐大介


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耳を澄ませば
鼓膜が音の振動を受けとめるように、
全身を澄ましたとき、
目や腕や内臓全部。
「想い」や「心」が受けとめるの。
世界のうたう「うた」を。

マラソンのランナーはね、
自分の体と対話しながら走るんだ。
筋肉の収縮と弛緩の摩擦。
ふみしめる大地の密度。
呼吸の温度。
風の湿度。
全てのハーモニーが美しく響き合うように。
うたうように走る。

水泳の選手も、
畑で美しい野菜をつくる人も。
みんな、世界のうたを感じてるのよ。
自分もうたの一部になれるように・・・
世界に、溶け込めるように。

あたしにいわせりゃ、
世界はうたでできている。

世界はうたから生まれたのよ。

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by yamanomajo | 2017-08-13 09:26 | 言葉

雨と畑


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by yamanomajo | 2017-08-13 07:54 |

生きがいについて / 神谷美恵子 3


死というものに対して恐怖や嫌悪の感情が結びつけられているのは、人が無意識のうちに「死―回避的挙動」に熱中して生きているからで、このような防衛的態勢を一切やめ、死というものを正面から自分の生のなかに取り入れてしまえば、死は案外人間の生の友にさえなってくれるものらしい。

まず死を前にした人がすぐ気がつくことは、自分が丸裸で、なんの支えもなく、死の前に立っている、ということである。現在の何を墓の向こうに持って行けるというのであろうか。一切の現実的なものへの執着がむなしいということに人は気づく。地位や金や名誉などはもちろんのこと、他人への愛着なども、それに固執してももはやどうにもならない。たとえまだ幼い子を残して行かなければならない母親の場合でも、幼いままその子を他人の手に渡して行かなければならないのである。であるから人は死が無理に断ち切るであろうもろもろの絆を、あらかじめ自ら心のなかで断ち切ることを学ぶ。それができれば、その瞬間に身も軽々とする。そして人々との残るわずかな共存期間は、その覚悟ゆえにいっそうその内容の豊かさを増す。

自己の生命に対する防衛的配慮が一切必要でなくなったときにこそ人は最も自由になる。もはやあらゆる虚飾は不要となり、現世で生きていくための功利的な配慮もいらなくなる。自分の本当にしたいこと、本当にしなければならないと思うことだけすればいい。そのときにこそ人は何の気がねもなく、その「生きた挙動」へ向かう。そのなかから驚くほど純粋な喜びが湧き上がりうる。

このような状態にある人の時間意識は確かに普通とは違っているようである。それは「無時間」への飛躍と言えるかもしれない。つまり死の面前で暮らしている人にとっては、時間の持つ密度が飛躍的に大きくなり、一刻一刻の重みが平生とは比較にならないほど増す。もうひとつ、死の面前で生きる人々に特徴的なことは、彼らの眼に物の見え方が変わってくるという点である。それは何よりも、自然の風物の色や形が鮮やかになり、その輝きが増す、という世界相貌の変化としてあらわれる。

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by yamanomajo | 2017-08-11 21:15 | 言葉

孤独、自然、瞑想、哲学、生命。


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