虚無という闇を超えて



[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-29 07:30 | 記事

風の知恵 / デニス・バンクス


d0366590_10575536.jpg


私たちや、私たちを取り巻く環境は皆、自然の一部である。
すべてが命のつながりの中で生きていて、互いが互いを必要としている。
環境を大事にすることは、自分自身を大事にすることなのだ。

鷲やビーバーは、幾千年間同じ形で生をつないでいる。
七世代先の人々のことを考え、自分たちが受け継いだ生き方を子供たちに伝えよう。 

滝の音や燃える火に心を傾けること。
幼い子供に話しかけること。
草木の生命に思いを馳せること。
それらは偉大な精霊と交わることである。

私たちを含めて、すべてが地球の住人なのだ。
空気、太陽、火、水、土―すべては所有することができない。

偉大な精霊を、どうやって所有できるというのだろう。
火は、私たちが生きていくうえで欠かせないものである。
火は暖かさを与えてくれるだけでなく、生きる指針も与えてくれる。
火と対話しよう。

水や雨を大切にしよう。
水は私たちの考えを浄化してくれる。
雨は空気を浄化して、地の渇きをいやしてくれる。
私たちは水や雨なしでは生きられない。

地球にあるものは皆、それぞれ存在する意味と役割をもつ。

自然の音に耳を澄ませば、自然は私たちに色々なことを教えてくれる。

鳥の鳴き声に耳を澄ませば、自分の心がわかってくる。

魚の泳ぎに目を向ければ、自分自身の答えが見つかる。

花には生命を絶やさないようにするという役割がある。

花の美しさや色にもそれぞれの役割がある。

目標に向かう私たちに力を与えてくれ、未来への夢を広げてくれるのである。
目がないから見えないとは限らない。
耳がないから聞こえないとは限らない。
鳥、魚、花、木、すべてが私たちの話を聞いている。

彼らに向かって心を込めて話すこと。

寒い冬の日に、木々が話をするのが聞こえてくる。
私たちや、私たちの未来について話している。
いつでも木々を敬うこと。

木の枝がなければ花は咲かない。
木があってこそ森になり、その美しさも生まれるのだ。
なぜ木を倒したり、森を破壊したりするのだろう。

木は私たちに生命の息吹を与えてくれる。

鷲、鹿、ビーバー、すべてが自分たちの流儀で生きている。
それぞれがビジョンを持っている。
肝心なのは、他人をまねることなく自分自身のビジョンを持つことだ。

夢は私たちにストーリーを語り、ビジョンの源を与えてくれる。
私たちが得たビジョンは、また他の人の夢となる。
人々に良い夢を見せてあげることだ。

ひとりひとりの画家は夢をもっている。
一枚の絵には、何かが隠されている。
画家の語りかけに耳を傾け、自分たちと結びつきのある話を聞こう。

太鼓の音や人々の歌は、私たちの心臓の音だ。
私たちの心臓の音は、いつでも宇宙の鼓動を映している。
歌を歌いたくなくなったり、太鼓を打ちたくなくなれば、
誰も私たちの鼓動に耳を澄まさなくなるだろう。

知恵の種は、私たちの中心にある。
自分自身の中心に、汚れのない思考とよい水を与えること。
そうすれば、閉じた中心が開いてきて、知恵の実を結ぶことだろう。

私たちの未来は過去にある。
時は流れているのだから。

日々くりかえす行いこそが生活であり、文化を伝えることである。

一日一日を生きていくことが、生きる目的なのだ。
日が暮れてしまったら生きる目的を失う、というわけではない。

年を重ねてから、幼いころのことや仲間のことを思い返す。
眼にも胸にも涙が浮かんでくる。

そんな時、人は幸せを感じ、その尊さを知る。

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-28 11:04 | 言葉

生の全体性 / J.クリシュナムルティ


d0366590_07533053.jpg


死はやって来る。そして、その死と言い争うことはできない。「もう少し待ってください」と言うことはできない。死はそこにある。それがやって来るとき、精神は、自分が生き、活力やエネルギーに満ち、生命に満ちていながら、あらゆるものの終焉を迎えることができるだろうか? 人生が葛藤や心配に浪費されていないときには、人はエネルギーや明晰さに満ちている。ここで言う死とは、人が知っているものすべての終焉を意味する。自分の執着、自分の銀行預金、自分の達成したものすべての終焉を意味する。そこには完全なる終焉がある。精神は、生きていながら、なおかつそういう状態に直面することができるだろうか? そうなったら、人は死とは何かという意味のすべてを理解するだろう。

もし<私>という観念にしがみついていたら、すなわち存続しなければならないと信じている<私>、そのなかに高次の意識、至高の意識が存在すると信じている<私>をも含めて、思考によって組み合わされた<私>という観念にしがみついていたら、そのときには、人は生における死とは何かを理解することはできない。

思考は、既知なるもののなかに生きている。それは<既知>の産物である。<既知>からの自由がなければ、とうてい死とは何かを見出すことはできない。その<死>とは、肉体のもつあらゆる根深い習慣やその他すべてのものの終焉、体や名前やその肉体が得たあらゆる記憶をほんとうの自分だと思い込んでしまうことからの決別である。肉体的に死ぬときには、そのすべてを持ち越すことはできない。自分の財産のすべてをそこへ持っていくことはできない。だから、同じ意味で、自分の知っているすべてを、生において終わらせなければならない。ということは、自分はまったく単独であるということである。孤独(ロンリネス)ではなく、単独(アロンネス)である。それは完全に“全体”となった境地にほかならない。

単独(アローン alone) とは全一(オールワン all one)を意味する。

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-24 20:15 | 言葉

命の形


d0366590_11261792.jpg

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-24 11:29 |

レイム・ディアー / リチャード・アードス


d0366590_06335076.jpg


五十年前、百年前となんら変わらない昔ふうの生き方を、あえて今でも私はしている。自分にはそれが気に入っている。なるべくつつましやかに、可能なかぎり地球に近いところで生きたいと、私は望んでいる。私は植物の側にいたい。自分がメディスンとして用いている草や花のすぐ近くで生きていたいのだ。グレイトスピリットが絶えず面倒を見てくださっているおかげで、そうやって昔のような生活をしても生き抜くことができるし、その気になればどんな生き方でも可能なのだ。だからこそ私は女房とふたりで、電気もない、水道もない、排水施設もない、道もないような、ないないづくしの山奥の小さな山小屋に暮らしている。これはわれわれ夫婦が望んだことだ。われわれの暮らしている質素なログ・キャビンには、なによりも平和がある。われわれ夫婦は、そういう平和のなかで残りの人生をまっとうしたいと考えている。現代の世界から完全に切り離されたところにいたいのだ。今のようなところともおさらばして、もっともっと山の奥に入り込み、そこでど田舎の暮らしをするのも悪くない。そこで、一層自然に近い形で生活するのだ。

野に咲く花々、清らかな水の流れ、青々とした松や杉、こうしたものはみな偉大なる精霊グレイトスピリットによって創られ、そのあつい庇護を受けている。彼はそうしたところへと優しい風を送り、そのことでそれらに生命の呼吸をさせ、それらに水を授け、それらを育む。たとえそれが険しい山であれ、はたまた岩の塊であれ、彼は同じようにお守りくださる。彼が私に目をかけてくださっているおかげで、私は水を与えられ、食べものを与えられ、植物や動物と共に、自らもそのなかのひとつとして、こうやって生きることができるのだ。私はひとりのインディアンとして、自分の人生に残されたすべての日々を、このまま送っていきたい。

しかし私は、このままどこかに閉じ籠って誰とも会いたくないと言っているのではない。今のままでも、どういうわけかたくさんの人が自分で道を見つけて私の山小屋を訪れてくる。私にはこういうやり方が気に入っている。あくまでも私は人々と心が通じ合えるところにはいたいのだ。いろいろなところの人たちと手をつなぎたい。そうやってたとえわずかでも、私たちインディアンの道を、スピリットの道を、その人たちに伝えたい。

だが、と同時に、面倒くさいことから一切足を洗って、さらに山の奥へ、奥へと分け入って、さながら大昔の人たちのように生きてみたいと思わないわけでもない。この期に及んでもなお、私は自分の住み処をもっと山奥に移すつもりでいたりする。そのときには山小屋なんてものすらもういらないかもしれない。こっちが森の一部になればよいのだ。そこには誰の目にも触れたことがないような薬草や、泉や、花、それも非常に小さな花がある。そんな小さな花にじっと見つめられていたら、その花のことを考えているだけで時間なんてあっというまに過ぎていってしまうだろう。花は花でも、人間に手を加えられた黄色や赤の大きな薔薇ではそうはいかない。聞くところによれば最近では黒い薔薇なんてものまで連中の手で作られているらしいが、なにを馬鹿なことをするものではないか。そんなものはすこしも自然ではない。むしろそうしたものは自然に背いている。私はそういう連中が大嫌いだ。

だから年を重ねるごとに、私は自分の隠れ家を奥へ奥へと移す。そうやって山また山のなかにどんどん入っていく。山々はグレイトスピリットがわれわれのために、私のために、創りたもうた土地なのだ。その山々とひとつになり、そこに溶け込んで、徐々に姿を消し、しまいにはすっかりそのなかに消えてしまう。私が望んでいることはそれである。自然のすべてが自分のなかにあり、そしてすべての自然のなかにわずかずつ自分が存在しているのだ。そしてそれこそが本来あるべき姿なのだ。

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-23 07:18 | 言葉

自然農畑 / 7月中旬


d0366590_06092986.jpg


d0366590_06151608.jpg


d0366590_06151603.jpg


d0366590_06152345.jpg


d0366590_06145909.jpg


d0366590_06191264.jpg


d0366590_06184604.jpg


d0366590_06191241.jpg


d0366590_06175539.jpg


d0366590_06222859.jpg


d0366590_06262932.jpg


d0366590_06144027.jpg


d0366590_06231254.jpg


d0366590_06231355.jpg


d0366590_06231308.jpg


d0366590_06263533.jpg

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-19 06:48 | 自然農

陽射し


d0366590_20225853.jpg

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-19 05:53 | 瞑想

はなしっぱなし / 五十嵐大介


d0366590_18213124.jpg


「アメフリ」

ザアザアと
音たてている
雨粒のひとつひとつは
みんな
違う音をたてている

雨音がひとつ
空気を切り裂き
音をたてて
落ちてきて

カエデの葉にあたり音たて
はじけた粒が
その茎に あたり
砂に あたり 音たて
また 別の雨粒が

十薬の
蓮の
ぜに苔の音
げんのしょうこの
黒曜石の音
蜘蛛の巣の音
小鷺の音
蝸牛の音
水芭蕉の音
待宵草の音

その音色はいったい
どれだけの数に
なるのだろう

一瞬に
幾億 幾兆の
音がなり

それが
絶え間なく
連続していく

無限の音の
交響曲


いつか自分も
音のひとつになって

溶けて
ザアザアの
一部になっていくような気がする

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-16 10:35 | 言葉

自然農畑 / 7月上旬 2


d0366590_07485314.jpg


d0366590_07485269.jpg


d0366590_07485359.jpg


d0366590_08040730.jpg


d0366590_07491991.jpg


d0366590_07485392.jpg


d0366590_07492079.jpg


d0366590_07491951.jpg


d0366590_07491921.jpg


d0366590_07491850.jpg


d0366590_08040748.jpg


d0366590_08040648.jpg


d0366590_08040784.jpg

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-15 08:07 | 自然農

妙なる畑に立ちて / 川口由一


d0366590_15413550.jpg


汚され 損なわれ 病み続ける地球が
地球上のあらゆる生命(いのち)達が
そうして私たち人間が これ以上に
生命衰えさせていくことなく
浄化を盛んとして 生命寿(ひさ)しく
美しい姿して巡り続けてくれますように

迷いの中の私たち人間が
真の知恵に目覚め
優れた能力よく働かせ
崇高な精神忘れることなく
清くして 心平和に 楽しく
美しい姿して巡りつづけること出来ますように

この一書が
天の道 地の道 人の道を見失い
宇宙自然の道 生命の道からはずれ
神仏の親心忘れつつある
私たち人間の足元を照らす
働きしてくれますように・・・

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-14 20:02 | 自然農

阿弥陀堂だより / 南木佳士


目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、
春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次へと苗尾を植え、水をやり、
そういうふうに目先のことばかり考えていたら、知らぬ間に96歳になっていました。
目先のことしか見えなかったので、
よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。
それが長寿の秘訣かもしれません。

畑には何でも植えてあります。
ナス、インゲン、キュウリ、トマト、カボチャ、スイカ・・・。
そのとき体が欲しがるものを好きなように食べてきました。
質素なものばかり食べていたのが長寿につながったとしたら、
それはお金がなかったからできたのです。貧乏はありがたいことです。

雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。
山の奥にある御先祖様達の住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、
どちらがどちらだかわからなくなるのが冬です。

春、夏、秋、冬。
はっきりしていた山と里の境が少しずつ消えてゆき、一年がめぐります。
人の一生と同じなのだと、この歳にしてしみじみ気づきました。
お盆になると亡くなった人たちが阿弥陀堂にたくさんやってきます。
迎え火を焚いてお迎えし 眠くなるまでお話しをします。
話しているうちに 自分がこの世の者なのか、あの世の者なのか分らなくなります。
もう少し若かった頃はこんなことはなかったのです。
恐くはありません。
夢のようで このまま醒めなければいいと思ったりします。

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-14 14:41 | 言葉

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 2


一日中あたりに気をくばり、夜になるとしぶしぶお祈りを唱えて、あやふやなものに身をゆだねる。こうしてわれわれは、自分の生活を後生大事に扱い、変革の可能性を否定しながら、徹頭徹尾追いつめられて生きなくてはならない。これがただひとつの生き方だ、というわけだ。

ところがじつは、ひとつの中心点からいくらでも半径が引けるように、生き方はいくらでもあるのである。あらゆる変革は奇跡と考えることができる。しかもそれは、不断に生起しつつある奇跡である。

・・・

実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている。もし人間が実在の世界だけをしっかりと観察し、迷妄に陥らないようにすれば、人生は─―われわれが知っているものに例えると─―おとぎ話やアラビアンナイトのようになるだろう。必然的なもの、存在する権利のあるものだけを尊重するなら、詩と音楽が通りに鳴り響くだろう。急がず賢明に生きてゆけば、偉大な、価値あるものだけが永遠の絶対的存在であり、卑小な不安や快楽は、実在の影にすぎないことをわれわれは知るだろう。実在するものは常に心楽しく、崇高である。だが、人々は目を閉じて眠りこけ、甘んじて外見に惑わされているために、あらゆるところで型にはまった因習的な日常生活を打ち建て、固定させている。そうした生活は、やはり純然たる幻想を基盤としているのだ。

遊ぶことが生きることにほかならない子供たちは、人生の真の法則や、それとの関わり方を大人よりもよく知っている。ところが大人のほうは、生きるに価する人生を送ることができないくせに、経験――つまり失敗――によって子供たちよりも賢くなったと思い込んでいるのである。

・・・

思うに、われわれが現にこれほどくだらない生活を送っているのは、ものごとの表面をつらぬく洞察力を欠いているからである。われわれは存在するように“見える”ものを、“存在する”ものと思い込んでいる。ある人間がこの町を通り抜けて、実在の姿だけを見るとしたら、コンコードの中心にある「ミル・ダム商店街」などはどこへ消えてしまうことやら。教会、裁判所、刑務所、商店、住宅などを見かけたら、徹底的に凝視することによってどんな正体があらわれるか、口に出して言ってみるとよい。話しているあいだに、それらすべてはこなごなに砕けてしまうだろう。

人々は真理が、太陽系のはずれとか、いちばん遠い星のむこうといった、はるか彼方に存在するか、アダム以前なり、最後の人間のあとに存在すると考えている。永遠の時間には、確かに真実で崇高なものがある。けれども、そうした時間や場所や機会はすべて、いま、ここにあるのだ。神自身もいまこの瞬間、栄光の頂点に達している。あらゆる時代が通り過ぎてゆくあいだも、神がいまほど神聖なときはふたたびめぐってこないだろう。したがってわれわれは、自分をとりまく実在の世界をたえず内部に浸透させ、そこに身を浸すことによってのみ、崇高にして気高いものを理解することができるのである。

・・・

じっくりと腰を据え、意見、偏見、伝統、妄想、外見といった泥沼、それに教会や州はもとより、詩や哲学や宗教に至るまで遠慮なく突き破り、ついに足が“実在”と呼ばれる堅い岩盤にうまく届いたら、これだ、間違いない、と言おうではないか。生であろうと死であろうと、われわれが求めるものは実在だけである。もしわれわれが本当に死にかけているのなら、喉がぜいぜい鳴る音を聞き、手足の先が冷たくなるのを感じ取ろうではないか。もし生きているのなら、なすべき仕事に取りかかろう。

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-13 07:42 | 言葉

自然の言葉 / タフカ・ウシュテ


私はたくさんの草木を調べたが、一本の草の葉でも、一本の茎の葉でさえ一つとして同じものはなかった。地上にはきっかり同じかたちの葉は二つとない。「大いなる精霊」はそのようであることがお好きなのである。地上の生物は大まかには一つのデザインに従ってつくることがお好みであって、そのおかげがあるから、生命のとおる道筋を辿ることができるのである。この道筋を辿ることによって、生物はどこに行くのか、どういう目標をめざすかを示すいっぽう、目標に至る経路のほうは自由に選べるようにしてある。生物たちがその本性に従い、その持ち前の衝動に従って行動することを精霊は望んでおられる。

ワカン・タンカは、草木も鳥獣も、もっとも見栄えのしないネズミ、シラミのたぐいに至るまで、そうあるべきように望みたもうているとすれば、まして、人間が、同じ仕事をし、同じ時間に起き、同じ型の既製服を着て、同じ地下鉄で移動し、同じ時計に眼をやり、そしてこれが最低のことだが、一日中おおむね同じことを考えていなければならないのだろうか。

すべての生物はその存在理由を持っている。一匹のアリでさえその存在理由があって、アリはアリなりの仕方でそれを知っている。まあ、脳を使って知っているのではないかもしれないが。ただ人間だけがなぜ自分が存在しているのかがわからなくなる地点まで達したのである。人間は、もはやその脳を自分の役に立てておらず、自分の身体の、感覚の、夢の内密の知を忘れている。人間は、精神が人間の中に蓄えておいた知識を活用しておらず、そのことを意識さえしていない。人間は目をつぶったままで、どこにも行き着かない道を前進している。広い砕石道を、技師たちが機械で砕いてさらに滑らかにして、人間を飲み込もうと無の穴が待っている、そのはてに向かって進んでいる。

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-12 15:21 | 言葉

夕刻


d0366590_19341101.jpg

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-12 15:19 | 瞑想

子供たちとの対話 考えてごらん / J.クリシュナムルティ 5


心は模倣をやめられますか。
つまり、習慣を形作ることをやめられますか。
そして、心は囚われている習慣から自由になれるでしょうか。

君の心は、習慣と習慣を生み出すことから自由になれるでしょうか。
この問題にとても深く立ち入るならば、なれることに気づくでしょう。
そして、新しい型や習慣を作らず、模倣のわだちに二度と陥ることなく心が新たになるとき、
それははつらつとして、若く、無垢なままなのです。
したがって、無限の理解力があるのです。
もはや蓄積の過程がないために、このような心には死がありません。

習慣や模倣を生み出すのは蓄積の過程です。
そして、蓄積する心には、衰退と死があります。
しかし、蓄積しておらず、蓄えていない、毎日刻々と死んでいる心―
そのような心には死がありません。
それは無限の空間の状態にあるのです。

それで、心は蓄えてきたすべてのもの―すべての習慣、模倣した美徳、
安心を得るために頼ってきたすべてのものに対して、死ななくてはなりません。
そのときには、もはや自分の思考の網に囚われていないのです。
過去に対して刻々と死ぬとき、心ははつらつとします。
したがって、決して衰退したり、闇のうねりを作動させることがないのです。

[PR]
# by yamanomajo | 2017-07-10 08:31 | 言葉

孤独、自然、瞑想、哲学、生命。


by yamanomajo
プロフィールを見る
画像一覧