人の世と私


心ひとり、自然を友に、孤独を友に、命と向き合って、
静かに生きていきたいと思う。

人の世のモラル、教育、常識、流行、伝統、
あらゆる集団的な思考、集団的な意識から離れて、
自分の運命に忠実に、まっすぐに、生きていきたいと思う。
自分に与えられた生を生き、自分だけの生を創造し、
自分が見出すことができる生と共に歩み、
静かな確信と喜びをもって生きていきたいと思う。

私に人の友があるとすれば、
それは人の世から離れて孤独の中で生を見つめて生きてきた人たちだけ。
会ったこともなければ話したこともないけれど、
目に見えない魂でつながっている人々。
時を超え、生の根底で手を携えている人々。
その人々の魂の声は、今、ここにある。

私にはこの世の友はいないけれど、魂の友ならいつでもいる。


生の運命は“孤独を生きろ”と言った。

生は孤独を強い、孤独を通して何かを伝えようとしている。
それは自分の生きる意味、この星に生まれてきた意味につながっているもの。
生の意味は言葉では言い表しがたいものだけど、
心のどこかで確信をもって分かるもの、感じられるもの。

私が生に何を期待するかではなく、
生が私に何を望んでいるかを知ること。
それが分かれば生に対して揺るがない確信が持てるはず。
生が望み、生が導き、生が運ぶままの生を生きればいいから。
私の意志とか選択ではなく、生それ自体が望むもの。
生の望み、導きを信頼して生きること。
すべて身を任せて生きるということ。


人生の変革は大衆や世間の中で起こるものではない。
変革とは常に自分の内部で起こるもの。
自分の内部で起こらなければならないもの。
それは大衆や集団からかけ離れた孤独の中で生じる。

社会が作り上げてきた様々なもの。
教育、常識、流行、主張、イデオロギー、政治、宗教、伝統―
人が敷いたレールのすぐそばに、まったく別の世界が広がっている。
脱線しなければ何も分からない。

社会に作られる人間になってはならない。
目に見えない他者に自分の人生を作らせてはならない。
すべてから抜け出すこと。目覚めること。
自分の足で立ち、自分で生を発見し、
自分を失わず、真実を失わず、
自分で見つめ、聴き、感じ、気づき、
日々を創造的に生きること。

自分にも分からない新しい自分を創造していける人生。
出会ったことのない自分、出会ったことのない世界に出会える人生。
未知の大地へと飛び立ち、限りない可能性を広げることができる人生。


すべてを空っぽにして、ただ「人間」から始めること。
大地に立つ、ただひとりの人間として。
宇宙に存在する、一つの生命として。

目を開けば、創造の世界が見える。
耳を澄ませば、命と宇宙の声が聴こえる。

ただ人間であること。
人間であることから始めること。
そこには生の限りない創造性がある。
とめどなく溢れる泉の水のように。

<時のはじまり>、それは創造の時であり、インディアンがあらわれた時である。そのころには、先生も指導者もいなかったし、学校もなかった。そこで私はたちは、振り返って創造というものを観察するしかなかった。私たちは自然を学ばなければなかった。自然を模倣しなければならなかった。私たちの文明のすべては、自然を学ぶことの上に築かれた。そういう人間たちが<時のはじまり>のころ、私たちの指導者になった。私たちの宗教ができたのも、このころだ。このような学びを通して、私たちは自分たちの生き方を作ってきた。
<時のはじまり>には、すべての生き物たちに、根源的な<生き方の教え>が与えられた。創造されたもののすべてが、今もそのときに与えられた<生き方の教え>を守って生きている。木も果物も、その教えをけっして外れない。同じ季節がくれば、木は必ず果物を実らせる。動物もけっして間違えない。動物たちも、自分たちが創造されたときのままで生きている。
では、こうして創造されたすべてのもののなかで、人間に与えられた<生き方の教え>とはなんなのだろう?
私たちは創造された世界を見る。・・・そこには、生命があり、円環があり、はじまりも終わりもない尺度がある。
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# by yamanomajo | 2018-05-20 06:52 | 思い

丘の上には / 志樹逸馬


丘の上には
松があり 梅があり 山桃があり 桜があり
木はまだ若く 背たけも短いが
互いに陰をつくり 花のかおりを分ち
アラシのときは寄りそいあって生きている

ここは瀬戸内海の小さな島
だが丘の頂きから見る空のかなたは果てしなく
風は
南から 北から 東から 西から
さまざまな果実の熟れたにおい、萌えさかる新芽や
青いトゲのある木 花のことば を運んで吹いてくる

それは おおらかな混声合唱となって丘の木々にふるえ
天と地の間
すべては 光 空気 水 によって ひとつに
つながることを教える

風はあとからあとから吹いて来る
雲の日 雨の日 炎天の日がある
みんなこの中で渇き 求めているのだ
木はゆれながら考えている
やがて ここに 大きな森ができるだろう
花や果実をいっぱいみのらせ
世界中の鳥や蝶が行きかい
朝ごとににぎやかな歌声で目覚めるだろう

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# by yamanomajo | 2018-05-19 21:16 |

生命、緑


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# by yamanomajo | 2018-05-16 12:29 | 四季

ウィトゲンシュタインの言葉


人が「神が世界を創造した」と言い、「神は絶えず世界を創造している」と言わないのは不思議なことだ。というのも“世界が始まった”ということが、なぜ、“世界があり続けている”ということよりも大きな奇跡でなければならないのか。
神が世界を創造したとして、今ここにある世界はいったい何なのか。創造されたその世界がまだ持続してここに存在しているほうがより大きな奇跡ではないだろうか。
いや、そもそも、世界の創造と持続は同じ一つのことではないか。
つまり、神はまだ世界に深く関わっている。

-

科学というものが自然や人間を解明しているのだと本気で信じ込んでいる人は、やがて退屈になって眠気に襲われるだろう。
自然の成り立ちや仕組みがすべて科学によって説明されていると闇雲に信じ、自分にはその理屈はよくわからないながらもきっとそういうものだと信じきってしまった以上、自分で考えることも感じることもなくなり、何事にも飽き飽きしてくるからだ。
そういう人はもはや自然の現象に驚かなくなる。神秘に感動することがなくなる。そのあげく、怖さも畏れも失ってしまう。
やがて人間に対しても興味を失い、生きることがとても億劫になってしまうだろう。

-

多くの人は神秘的な印象を与えてくれるものが好きだ。そして、周りに溢れていて見知った事柄を神秘的だと思うことすらない。
だから、昨晩に見た夢について語り、感性について語り、美だの愛だの思想だのについておしゃべりをする。しかし、自分の部屋の机や鉛筆については少しも語らない。
どうしてだろう。ふだんから使っている机や鉛筆や枕や靴だって、夢だの愛だの感性だのと同じくらい神秘的ではないだろうか。そんなありふれたものもまた神秘的だということもわからないのだろうか。

-

マンネリになったこの日常にあきあきした私たちは、どこか遠くへ行けば何か特別な新しい体験ができると思いがちだ。何かもっと自分の人生にとって意味深い体験がどこかにあるはずだと夢想する。
しかし、他人が日常として暮らしている別の場所に行く必要などない。本当の謎はこの日常の中にたくさん埋もれているからだ。
決まった手順で安易にやりすごしている毎日の生活の中にこそ、人生と世界の深みはひそんでいる。そのことに気づいた時、私たちの日々はがらりと変わり、何もかもが新しくなる。

-

「時間が経つ」
「時が過ぎ去る」
「時間の流れ」
「時間の浪費」
私たちはこのような言い方をし、このように信じている。
しかし、時間があたかも流れていくように感じてしまうのは、何かの過程、たとえば時計の針の動きという過程が添えられるときだけだ。
そういう別のものが添えられないかぎり、時間はそういうふうに流れていくことはない。

-

太陽の熱ときれいな水、そして光が充分に与えられたときに芽が出てくるものだ。早く成長させようと力づくで引っ張っても、芽は出てこないどころか死んでしまう。
その扱い方は、他の事柄についても同じだ。

-

本当に革新すべきは自分自身ではないのか。自分がすっかり新しくなれば、自分が取り巻く世界も変わるのだから。

-

世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌する。
そして、君自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう。



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# by yamanomajo | 2018-05-13 19:21 | 言葉

梨とサクランボの果樹苗、野菜種の芽生え


果樹苗は新たに梨とサクランボを植えました。
梨の品種は幸水、豊水、ラ・フランスの3種。
サクランボは佐藤錦、ナボレオンの2種。


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幸水



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豊水



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佐藤錦




春撒きの野菜種から芽が出始めています。

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ダイコン



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カブ



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ソラマメ



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カボチャ



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ジャガイモ

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# by yamanomajo | 2018-05-04 20:34 | 自然農

さくら / 茨木のり子


「さくら」

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と


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# by yamanomajo | 2018-04-26 19:41 |


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# by yamanomajo | 2018-04-22 18:52 | 四季

春、山歩き


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# by yamanomajo | 2018-04-22 07:08 | ある日

キルケゴールの言葉 2


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単独者として生きることは何よりも恐ろしいことだということを学んだ者は、単独者として生きることはもっとも偉大なことである、と言うにはばからないであろう。

・・・

一般に、孤独への要求は、人間のうちにはたしかに精神があるということのしるしをなし、またそこにある精神がどんなものかを測る尺度である。「ただおしゃべりだけをしている世間人」は、孤独への要求などを少しも感ぜず、ほんの一瞬間たりと一人でいなければならなくなると、ちょうど群棲鳥のように、直ちに死んでしまう程である。このような人々は、幼児が子守歌を歌って寝かしつけられなければならないのと同じように、食べたり、飲んだり、眠ったり、祈ったり、恋をしたりなどできるためには、社交という名の子守歌によって心に安心をうることを必要としているのである。しかし古代においても中世においても、人はこの孤独への要求を気づいていたし、また、それが意味するものへ尊敬をはらっていた。ところが、現代という社会そのものの時代においては、人は、孤独というものを、犯罪者に対する刑罰として以外にはそれを用いるすべを知らないほどに、それ程にまで恐れているのである。

・・・

世間では、元来、どうでもよいことだけが云々される。だから世間では、いつもこのどうでもよいことが一番問題となっているわけである。要するに、世俗性とはまさに、どうでもよいことに無限の価値を付与することそのことである。

・・・

公共とは誰もが身をもってそれに参与することを許されない幻である。

・・・

公共とは、一切にして無であり、それはあらゆる勢力のうちで最も危険なものであってしかも最も無意味なものである。人は公共の名において全国民に向かって語ることができるが、しかもその公共たるや、ただ一人の人間がどんなに少ないとしても、そのただ一人の現実の人間よりももっと少ないものである。公共という規定は、個人個人を奇術にかけて空想的にしてしまう反省の手品である。それというのも、この手品にかかると、各人が、それに比べると現実の具体性がみすぼらしく思えてくるこの巨大な怪物を、あえてわがものにすることができるからである。公共は、単独の人々を空想的に一民族を支配する帝王にもまして大いなるものたらしめるところの、分別の時代のおとぎ話である。しかし、公共はまた、それによって個々人が宗教的に教化されるところの、さもなくば没落していくところの、恐るべき抽象性である。

・・・

大衆は不真実である。その場合大衆というのは、この、または、あの大衆のことではない。生きている、または、死んでしまった大衆のことではない。卑しい、または、貴い大衆のことでもない。富める、または、貧しい大衆のことでもない。・・・概念として理解された大衆ということである。

大衆に関する虚構の第一は、まず実際には大衆の中の個々の人間がやっているにすぎないことを、あるいは、いかなる場合においても、結局は一人一人がしていることを、「大衆(みんな)」がやっているのだというふうにみなしてしまう点にある。それが虚構のわけは、そもそも「大衆」というものは、手などをもっていない抽象物だからである。

次に虚構の第二は、すべての個人のうちのもっとも臆病者でさえも大衆がそうである程には臆病であったためしは一度もなかったため、大衆にはそれをやってのける「勇気」があるというふうにみなしてしまう点にある。これが虚構であるわけは、大衆の中に逃げ込んでしまって、臆病にもひとりの個人であることを回避する人間は、大衆という「臆病そのもの」に自分の臆病を一枚加えることになるからである。

・・・

大衆は虚構である。そのためキリストは十字架につけられたもうた。なぜなら、キリストはすべての人々におもむいてゆかれたが、大衆とは決してかかわりあいになろうとはされなかったからであり、彼はいかなる仕方においても大衆を助けにもとうとされなかったからであり、彼は、この点に関しては無条件的に大衆から離れ、党派をつくろうとはせず、また投票を許さず、ただ彼自身であろうとされ、つまり、単独者に関わる真理であろうとされたからである。そこでこのゆえに、真実に真理に仕えようとする者は誰でも“それだけ”で何らかの意味において殉教者なのである。

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# by yamanomajo | 2018-04-16 20:46 | 言葉

ジャガイモと果樹苗の植え付け


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ジャガイモの植え付け。
去年の夏に収穫したものを冬のあいだ保存し春に種芋として使います。
今年はキタアカリ、ベニアカリ、男爵の三種類です。




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果樹苗は桃4本、すもも(プラム)3本を植えました。
果樹が実をつけるには種類の違う受粉樹が必要で、
それぞれの種類の組み合わせと相性、配置に少し頭を悩ませました。

種類が違うものでも相性が悪ければ受粉率が低くなるので、
いろいろと調べて相性の良さそうな品種を選びました。

桃の品種は白桃、白鳳、あかつき、大久保の4種。
すももは大石早生、貴陽、ハリウッドの3種。



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上はすもも(大石早生)の花。
下は桃(あかつき)の花。

果樹はこれからほかにも梨やサクランボを植える予定です。




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畑にテントウムシの姿がありました。
もう春です。

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# by yamanomajo | 2018-04-12 18:03 | 自然農

もと居た所 / 井亀あおい


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もう、ビルがふたつも建ってしまったね。ぼくにとっては、とても邪魔なんだよ。いいかい、マルセル。ぼくには見える、何もとらえどころのない、ぬっぺらぼうのビルが沢山建っている。それだけじゃ足りなくて、ビルとビルのすきまに小さな家が沢山建つ。それだけでも人間は足りないと言うんだよ。その家の中に家具を運びこむんだ。どの木のたんすがいい、とかどの布張りのディヴァンがいい、とか品定めしているけれど、結局同じだよ。運びこんだ家具に、またいろんなものをつめる。奥様方は、宝石がひとつなくなると総理大臣まで呼び出して探させるんだよ。だんな方は、愛書の金モールが少しとれたと言っては、一日中その古書とにらめっこするんだよ、ね、マルセル。ものがあんまり多すぎる。多すぎて、ほんとうのものが隠れてしまっているよ。ものをすべて取り去ったら、ほんとうのものが見えるのに。ものがあんまり多すぎるんだ。人間はまたビルを建てる。またひとつ、ほんとうのものを隠すものが増えてしまった。とても、邪魔なんだ。分かるね。邪魔に思えるんだ。

――ものが多すぎる。それに、人が多すぎる。それを取り去れば、ぼくらにはほんとうのものが見えるんだよ。でも、誰もそれを取り去ろうとはしないんだね。宝石ひとつ、金モールひとつなくしても大さわぎするんだね。火事で家がなくなっても、同じくらい泣いたり騒いだりするんだね。

人だって、多すぎる。みんな、自分が飾る鎧をどんどんつぎ足していって、しまいにはその鎧だけが残って、それで「人」だと思い込んでいる。“しん”までうわべの人間だのに。そんな人は、もう人じゃない。取り去ってしまわないと、ほんとうの人が見えないんだ。だのにみんな、うんと立派な鎧をつくりあげた「偉い人たち」をまつりあげて、そんな人を増やそうとしているんだ。子供は、まだいい。鎧なんかつくって、ほんとうの人を見えなくすることがないもの。でも、その子供も、自分の持っている人形がなくなると大声で泣くんだ。

――ぼくは覚えているよ、マルセル。ずっと以前、“ここではない”所に「真」があったことを。そこは、ほんとうに、今の“ここ”じゃなかった。でも確かにぼくはそこにいた。そこは、何もないよ。色彩、そうだね、夜が明ける時のように、向こうの方が明るくて、上の方は重々しくたれこめている。そんなところだ。まわりに人なんていない。ほんとうに何もないんだよ。そしてそこに「真」があったんだ。ぼくは覚えているよ。ぼくは確かにそこにいたことがある。

すべての、多すぎるものを取り去ってしまえば、あの以前の、そうだね、「もと居た場所」があらわれるんだ。そしてそこにある真が見えるんだ。すべてのものを取り去ってしまえば、だよ。ぼくらは「もと居た場所」の上に、バターか何かを塗るみたいにいらないものを厚くぬりつけて隠してしまったんだね。そして、それが「真」だと思っている。それが少しでも欠けると、もう泣き出すんだ。でも、ほんとうの「真」はすべてを取り去った所にあるんだ。どうしてみんな分からないんだろう。あの火事で、邪魔なものが少しなくなった。もう少し取り去ると、「もと居た場所」がすきまから見えてくるはずなんだ。ぼくは、火がいらないものを取り去るのを手伝おうとしたんだよ。ほんとうの空を隠している空をはぎ取ろうとしてね。でも、火は消されてしまったし、ぼくの手は空を少ししかはぎ取れなかった。みんな泣き叫んでいたよ。宝石や、金モールや、人形が燃えてしまったんだね。

――マルセル、すべてを取り去って何もなくなってしまったら、そこにこそ「真」があるんだ。ぼくら、そこに行きつけないはずはないんだよ。だって、「もと居た場所」なんだからね。すべてをとり去りさえすればいいんだ。とり去りさえすればいいんだよ。多すぎるもの、多すぎる人、うその空。うその地面をとり去りさえすれば。

でもね、宝石や金モールがなくなっただけであれほど泣くのなら、どうして人は真に出会えるだろうね。どうして、すべてのものを捨てずに「真」と出会えるだろうね。マルセル、とても哀しいよ。―

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# by yamanomajo | 2018-04-06 19:26 | 言葉

一羽の白鳥


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時々通るとある川の岸辺に一羽の白鳥がいた。
春になり、周りの仲間たちは皆シベリアへ旅立ったのに、
この一羽だけは何週間も前からずっとこの場所にいた。



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近づいてもそれほど恐れなかったので、
しばらくのあいだ友達のように一緒の時間を過ごした。
右の羽が不自然に曲がっていたので、
どうやらケガをして飛べなくなったらしい。



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周りの仲間たちが旅立っていく中、一羽だけ取り残されてしまい、
私はこの白鳥から寂しさしか感じることができなかったけど、
この子自身からは野生の動物らしい活き活きとした快活さが感じられた。



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でも瞳はどことなく寂しそうな感じもした。



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この白鳥はこれからどうするつもりなのだろう。

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# by yamanomajo | 2018-04-03 07:19 | ある日

自然農畑 / 桃の木、イチゴ、サトイモの植え付け


今年から野菜だけでなく果樹も植えることにしました。


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桃の果樹苗。


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いつも一休みしているイスのすぐそばに植えました。
やがて大きくなってこの場所に根づき、私の友になってくれることを願います。

果樹はこれから桃以外にスモモ、梨、さくらんぼなどを植える予定です。
5年後、10年後・・・果樹が無事に生長し、果実を垂らし、野菜と一緒に畑を彩り、
時に小鳥たちがやってきて果樹の枝に止まり、さえずり、果実をついばみ・・・
そんな日が来ることを夢見たいと思います。



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イチゴの苗植え。



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サトイモの植え付け。



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野ウサギの糞を見つけた。
まだこのあたりにいるらしい。
小動物が近くにいてくれるのは嬉しい。



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畑作りもまた一種のデザインのようが気がします。
今年は美しさを意識して畑を作っていきたいと思います。

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# by yamanomajo | 2018-03-30 19:03 | 自然農

衣裳 / 荒津寛子


「衣裳」

なぜ美しいものが着たいのです
沼のやうな
この階段をのぼりながら
ふしぎに思うのです
風が吹けば
どこからくるともわからない
風のような嗅覚に挑んで
黄や紫の踊りを舞うのでしょうか
紅白粉の匂いが散れば
一せいに飛び立つ蝶々の群
産卵期のひとときまえの
狂おしい白蟻の舞踏
乙女らよ
何かに追われるように
なぜ美しいものが着たいのです
いつ のぼりつめるともわからない
階段を
よくみれば それは
ひとつの大きな輪なのですね
もう千年以上もこの階段を
のぼっているのですが
乙女らよ
野に行こう
厚ぼったい胸飾りを捨て
草笛を吹いて競おうよ
黒髪で
私らの歴史を縫うため
そして
ゆめにきらめく
まなざしのため


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# by yamanomajo | 2018-03-26 20:25 |

自然農畑 / 虫たちとの思い出


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# by yamanomajo | 2018-03-24 20:33 | 自然農