夏、青さ、自転車をこぐ


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# by yamanomajo | 2018-07-15 21:02 | 四季

宇宙の宝石


里芋の葉の上の雫。
自然が生み出す宝石。


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# by yamanomajo | 2018-07-14 13:18 | 命と宇宙

海獣の子供 4~5巻 / 五十嵐大介


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波も…
雲も…
わたしの目に見えるほとんどは
人間じゃない

世界の大部分は“人間じゃないもの”でできてるでしょう?
だからわたしは人間じゃないもののほうを多く見る。
でもどうやらそれはダメらしい…

世界を割合の通りに見ているだけなのに、
どうやら他の人たちは違うらしい…


・・・


ジムは死がキライだから。
いつも死を追い払おうとしている。
どうして?
形が変わるだけなのに。

生まれる
食べる
食べられる。
体の一部になる。
土になったり、
森になったり。
変わりながらぐるぐるまわる流れの中の一瞬にすぎないのに。

俺の中に「死」なんてなかったよ。
俺に「死」をくれたのはあなただ、ジム。

人間だけが「死」までの区切られた時空に閉じ込められている。
古くは違ったのに。


・・・


あの巨人が示しているのは“世界の姿”だ。
そういう神話があったろ?
世界が人体だとするなら僕らは中身…
山や海や生命はきっと内臓や血液なんだろう。
それは地球をひとつの機構(システム)として捉える考えと同じものだ。
はるか昔の人間は誰に教えられるでもなく、感覚的 経験的にその事を知っていた。
今でも本当はみんなが知っているはずなんだけど、意識のレベルにあがっていない。
何が違ってしまったのか…

ねえジム。
僕とあなたとの違いがわかる?
“言語”なんだ。
僕はごらんの通りおしゃべりだけど、言葉のない世界を持っている。
世界を受け止める事、認識する事を、言語に因らずしているんだ。
あのころと同じように…

言語は性能の悪い受像機みたいなもので、
世界の姿を粗すぎたり、ゆがめたり、ボヤかして見えにくくしてしまう。
“言語で考える”って事は決められた型に無理に押し込めて、
はみ出した部分は捨ててしまうという事なんだ。

鯨のうたや鳥の囀りアザラシの泳ぐ姿のほうが、
ずっと豊かに世界を表現している。
きっと昔は人類も同じだったはずだよ。
鯨たち…海の生物たちと同じ…
そのとき我々も…海そのものであり宇宙そのものだった…
かつて人間も…気高いケダモノであったのだ。

同じ“言葉”でも“詩の言葉”は音楽に近い。
僕はね、音楽や詩はこの宇宙のいたるところに満ちているものだと思う。
そしてきっと。
生命も同じところから来た…

今起こっている事は誕生の物語りだ。
“星のうた”もその事をうたっている。

僕たちは誕生の物語りの中にいる。


・・・


世界の秘密はヒントを、あるいはそれそのものを様々な形で現している。
鯨が抱く女神や、島の時をすり抜ける少年の姿を借りて。
海亀の瞳の色や、海岸の木の葉の形、風の肌触りを通して、
わたしたちに語りかけている。
お前の小さなてのひらの中にある物語りにも、世界は姿を借りて潜んでいる。

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# by yamanomajo | 2018-07-11 19:39 | 言葉

今年の初収穫、梅雨の畑、命の歌


北国も梅雨に入り毎日雨、曇り空が続いています。


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今年の初収穫は春に種まきした大根でした。
小ぶりですがやはり収穫は嬉しいものです。



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トマトは実が少しずつ大きくなっています。



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草たちと一緒に生長するキュウリ。


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キュウリの赤ちゃん。



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里芋。



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サツマイモは蔓の生長が勢いづいてきた。



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カボチャの生長はいつもダイナミック。
今年は去年よりも葉っぱの大きさが目立つ。
ハチたちは花粉集めに大忙し。


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着果したカボチャの雌花。(7月2日)


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7月8日の姿。
わずか6日でこれだけの成長力。
これもまた生命の喜び。
命を歌う命そのものと、命の歌を聴き、見守る人間の喜び…



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トウモロコシにもトウモロコシだけの歌があるよう。



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命の歌は色、形、内部、外部、いろんなところに宿っている。



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畑の虫たち。
彼らもまた尊い存在、尊い命。

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# by yamanomajo | 2018-07-08 18:42 | 自然農

運命を知ること、愛すること


どんな人間にも運命というものがある。
すぺての人が運命を宿している。

そうあるべくしてそうあり、
そうなるべくしてそうなる。

自分の意志や選択というものではなく、
必ずそうならなければいけないものがある。


運命は苦しみや不幸を与える。
けれどその苦しみや不幸には意味がある。
意味があるからそれはその人に降り注ぐ。
意味のない苦しみも、意味のない不幸もない。

どんな形であれ、どんな方向であれ、
運命はその人の人生を変え、大河に浮かぶ船のように、
新しい地へと運んでいく。
人はその運命の力に逆らえない。
それは運命であるから。

運命とは、外部からやってくるものではなく、
自分自身の内に宿っているもの。
その人自体が運命だから、どこに行こうとも運命は共にある。
その人が、私自身が、運命そのものだから。

私たちにできることは、自分の運命を知り、それを受け入れること。
運命に逆らい、恨み、抵抗するのではなく、
運命を、あるがままの自分を、あるがままの人生を、すべて受け入れること。

運命との融和。
自分と運命とは別物ではなく、それは同じものであるということ。
自分とは運命であり、その運命は自分そのものであるということ。


一輪の花は、一輪の花として生まれた。それは運命。
花はそれに逆らわず、恨まず、抵抗せず、そのあるがままを生きている。
運命を受け入れようとすることもなく運命を受け入れている。
そうであり、そうあるしかないのだ。
一輪の花は、一羽の鳥になることはできない。


ただ、そうあること。
それは運命だから。
その運命であるということが、その存在の意味。
確固とした意味。
そこから何かを汲み取ること、見つけること。
気づくこと。
理解すること。

自分の運命を読み取り、自分自身を読み取り、自分自身と融和し、
本来自分がどうあるべき人間なのかを、
どのように生きるべきなのかを悟っていく。
無理なく、ごく自然に。


ギリシア語に“ステルゲイン”という言葉がある。
この言葉は“あきらめて運命にまかせる” “運命の甘受” “運命愛”を意味するという。

運命自体が自分自身であることを悟ること。
運命を愛するということ、それはほかならぬ自分を愛するということ。
運命を愛することは、自分の人生を愛すること。
喜びも、幸福も、自由も、自分自身との融和にある。

自分が運命と“ひとつ”であることを知るとき、迷いや疑いはなくなる。
迷いなく、疑いなく咲く一輪の花のように…

花が花でしかあり得ないように、そこに選択の余地はない。
運命とは、選択の余地がないということだ。
そうあるようにしかないのだから。
そうなるようにしかならないのだから。


起こることに意味がある。
そうあることに意味がある。
そうなることに意味がある。

何が起ころうとも、それをそのあるがままに受け入れること。
苦しみも、悲しみも、喜びも、幸せも。
運命は、留まらず、刻々と、流れている。生きている。
運命は「生」そのものだから。


運命を知ること。
自分を知ること。
運命で“ある”こと。
自分とひとつになること。

大地に咲く、小さくも力強い一輪の花は、
生をどう生きるべきかを人間に教えてくれている。


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# by yamanomajo | 2018-07-05 12:12 | 思い

緑と山と田園と


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# by yamanomajo | 2018-06-29 19:20 | 四季

梅雨入り前の畑


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カボチャの蔓が勢いよく伸び始めた。


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カボチャ畑。
みんな元気いっぱいに生長してほしい。



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春蒔き枝豆。
少しずつ大きくなってきた。


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秋収穫の中晩成の枝豆も蒔きました。
去年は一か月早く蒔いて少し失敗したので今年は遅めに。



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生長がいまいちなダイコン。
数本は収穫できそうかな。。



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ジャガイモの畝。


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ベニアカリ(ジャガイモの品種)の花が長いあいだ咲いている。
ボリュームがあって綺麗な花。



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トマトの花。



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小さなイチゴの実。



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キュウリの葉の下に仲良しの二匹のヨコバイがいた。
畑にはいろんな色のヨコバイがいる。



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暑くて口をポカンと開けているカラス。
このハシブトガラスはつがいの一羽でいつも夫婦で畑にやってくる。
手を振って合図をすると足元近くに飛んでくる。
私が食べ物をあげる人間だと知っているからだ。

野生のカラスはカメラのレンズを向けるととても嫌がる。
普段はなかなか写真を撮れないけどこの日はたまたま撮れた。



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畑のすぐそばに桑の実が生っていることに初めて気づいた。
桑の実のジャムでも作ってみようかな。

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# by yamanomajo | 2018-06-27 10:13 | 自然農

海獣の子供 2~3巻 / 五十嵐大介


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この世界に在るもののうち、
僕ら人間に見えているものなんてほんの僅かしかないんだ。

宇宙を観測する技術が進んでわかったのは、
どんな方法でも観測できない“暗黒物質”があるという事。

宇宙の状態から暗黒物質が“ある”事だけは推測できる。
そしてその物質量の和は通常の物質の10倍以上かそれ以上…つまり、
宇宙の総質量の90%以上は正体不明の暗黒物質が占めている事になる。

僕たちは、何も見てないのと同じだ。
この世界は見えないもので満たされていて、
宇宙は僕たちに見えているよりずっとずっと広いんだよ。


・・・


俺は宇宙は人間に似てると思う。
…人間の中には、たくさんの記憶の小さな断片がバラバラに漂っていて…
何かのキッカケで、いくつかの記憶が結びつく…
その、ちょっと大きくなった記憶に、
更にいろいろな記憶が吸い寄せられて、結びついて大きくなっていく…

それが“考える”とか“思う”という事でしょう?
それはまるで…星の誕生、銀河の誕生する姿とそっくり…

…宇宙と人……


・・・


人間には理解できない、
そこにある事に気づく事すらできない秩序や価値や知があるかもしれないんだから。

どのような道を経て、今に至るかは違っても、
今 わたしたちのまわりにあるすべての存在は、
世界が生まれたときからきっかり同じだけの時間を経てここにある。

みんな対等だと思うけどね。
自分だけが頂点にいると思うのはマチガイだ。

あんたが見たのはほんの一部。
わたしたちはまだ何も知っちゃいない。
世界の何も見つけてない。
あまりに未知の事が多すぎて、全体像もその意味も、知るには至らない。


・・・


幽霊にもいろいろある。
「死者」の幽霊、「物」の幽霊と…「事」の幽霊…

わたしたちの言った事、した事は、風が水に皺を刻むようにこの世界に痕跡を残す。
それは形を変えながら拡がっていく。
鯨の歌の一節に形を変え…素粒子の振動の内に受け継がれる。

世界のどこかに永久に記憶された、わたしたちのした“事”
その痕跡を…「幽霊」と呼ぶ事もある。

ふとした瞬間にわたしたちは出会うのだ。
過去や未来の、“誰か”の記憶に…


・・・


光と水が体に浸み込んでくる…
そのときわたしの細胞とぶつかる音が、「記憶」を奏でる。
…記憶は伝わって伝わってわたしに届いて、わたしの気持ちをのせて。
また…伝わっていく…

この水は、どれだけの記憶を
蓄えているんだろう。

海底は無数の死体が降り積もってできた泥で覆われている…
それは…時間や記憶そのものだ…

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# by yamanomajo | 2018-06-23 18:34 | 言葉

開かれた心 / バーナデット・ロバーツ


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「開かれた心」とは、自分の主観的な物の見方や、成長の妨害となるような見解・判断に執着しない精神です。それは他の観点や代案を見て、洞察や理解を――うまくいけば叡智をも――得ることができる精神です。

・・・そして、「開かれた心」への真の鍵は、判断そのものの停止にほかならないということです。ここでいう「判断」とは、私たちが物事を見るときのメガネという意味です。私たちはそのメガネを通して、人を自分の基準で裁き、良いとか悪いとか関心がないなどと品定めします。これも判断に違いありません。自分の観点に従って、物事がどうあらねばならないかを期待(判断)し続けるなら、物事を私たちの外部にあるものとして、ありのままに見ることはできません。このように期待するなら、時々刻々変化する他人をありのままに見ることができず、他者における変化と成長を無視することになってしまうでしょう――自分自身についてと同様に。最初に出会ったときの印象が最後まで変わらないということはよくありますが、それは、よかれあしかれ、私たちが最初のイメージにしがみついて変化を認めようとしないからです。つまり、イメージを形成すること自体、ある種の判断なのです。

こうした無意識の判断に終止符を打つことは、自分の偏った意見や限定的な見方に執着しなくなることです。それは、他人の悪口を言うこと(自分の評価を上げるための無意識的な戦略)をやめるとともに、各人の物の見方に正当性を認めることです。自分の見方に固着して、理解の共通基盤を見出せないなら、どんな会話もくだらないおしゃべりになり、時間の無駄になるだけでしょう。

私心のない客観的な精神で、他者の言うことに判断を交えず耳を傾けられるようになると、私たち一人ひとりの魂の中にある扉が開きます。その扉は神の道の理解へと続き、慈愛がおのずと湧き上がってきます。したがって、「開かれた心」がもたらす最大の効果は、偏見のない愛と言えるでしょう。それは、たんなる寛容や自己犠牲や忍耐の要請を超えるもので、曖昧な沈黙でもなく、そこには「自分は悟った」という感覚などこれっぽっちもありません。

こうした客観性が身につくと、私たちは好き嫌いを超えた地平に到達し、開かれた明晰な精神で他者と出会うことが可能になります。そこには、既成のイメージも、自己防衛的な姿勢もありません。自己防衛の姿勢をとるとき、私たちは自分の価値観を基準にしてあらゆる人を判断しているのです。こうした客観性があれば、心理的に、あるいは暗黙のうちに、相手に自分の流儀を押しつけることがないので、周囲の人々はのびのびと自分らしく、ありのままに振る舞うことができます。他者を自由にさせることで、私たち自身も自由になり、そしてこのように互いが自由である中で、真の関係性とコミュニケーションが生まれます。しかし、他者にこの自由を与えるためには、まず私たちが自分自身に安らいでいなければなりません。そして合一生活の目的とは、この安らぎを与えること、人間関係に欠くべからざるこの自由を与えることなのです。

・・・「開かれた心」を求めて努力するとき、私たちはこの目的に向かって前進しています。この客観性へ向けての努力は容易なものではありません。なぜならそれは、自分がもっていることさえ知らなかった概念や「お守り」を捨て去ることを意味するからです。

観想生活の全過程に目を向けると、内的な変容に続いて、意識のさらなる変容がやってくることがわかります。それは、意識の中身すべてを空にすることです。この展開は微妙なものですが、やがて「私―意識」の深い根を露呈させることになり、私たちを「自分」という感覚の終点、最後の痕跡にまで連れて行くでしょう。この目的地に至る道として、私は「開かれた心」以外のものを知りません。

・・・この段階における進歩は、太陽の光に反応してゆっくり花が開く様子に似ています。つぼみが閉じているときには知り得なかった理解と慈愛という花が開くのです。この開示は、魂の成長のプロセスであり、それは完全に美しく成熟し、花弁が開ききって落ちるまで続きます。そして、花はついに消滅し、一巡して初めに戻ります。中心から離れるこの動き、つまり自己から離れるこの運動は、合一生活の徳によって可能になります。実のところ、徳の完全な開花の目的とは、自己を終わらせることにほかなりません。しかし、ひとたび花が散ってしまえば、この徳――この内的活力または運動――は消滅し、自己はもはや存在しないのです。


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「開かれた心」に関する章で、私は「判断」という言葉を使っていますが、それは意識的に行われる道徳的判断のことではなく、心の自動的な識別作用を指しています。この無意識的な識別作用は、それ自体、微細な形態の判断なのですが、自己意識とあまりにも密接に結びついているため、この作用が停止すれば、自己意識も停止してしまうでしょう。一例をあげるなら、私たちは人と会ったとたん、反射的に自分自身を意識します。そしてこの反射(再帰)的な内省作用と共に、連想作用が働き始めます。けれども、私たちはこの微妙な識別作用を経ずに世界や人々を見られるようにならなければ、それらをありのままに見ることはできないのです。それまでは、それらを自分の中にあるイメージとして見ているだけであり、それはあるがままを見ることとはまったく異なります。私たちは、他者をまったく新たなものとして、あるいは初めて会ったときのように見ることができなければ、他者の中にも自分自身の中にも変化を起こすことはできません。ですから、私が今述べている微妙なかたちの識別作用は、より完全な慈愛、同情、赦し、正義などを求めるうえでの妨げになるのです。

ここで理解すべき重要な点は、この瞬時に反応する意識は対象を自動的な識別するということです。こうした識別作用を行っているさなかにその心に気づくようになるなら、私たちはやがて、心が自らを意識する行為の真っ最中に、その心をつかまえられるようになるでしょう。私がこの章で述べておきたかったのは、心には自動的な無意識の活動があり、その活動において、識別作用と自己意識は別物ではない(すなわち、識別作用の停止は自己意識の停止に等しい)ということの発見だったのです。

そのときは気づかないかもしれませんが、この発見は、やがて訪れる自己意識の停止に向けての重要な洞察ないし準備となります。この識別作用は、当初は微細なレベルでの判断であるように思われますが、やがて、微細なレベルでの自己意識であることが判明するのです。

神はいずこに―キリスト教における悟りとその超越 / バーナデット・ロバーツ

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# by yamanomajo | 2018-06-21 20:08 | 言葉

どこもかしこも命


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ジャガイモの花が咲いた。



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ジャガイモの葉の上にいたキリギリスの子供。



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ソラマメの花を初めて見た。



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ダイコン。
春蒔きのダイコンはやはり生長が鈍いような。。



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カブはほとんどが虫に食われています。
秋野菜を春に育てるのは難しいのかもしれない。



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カボチャ。
葉がとても大きくなってきた。
たった一粒の小さな種からこんなに大きくなる不思議。



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トマトは脇芽をすべて摘み取って一本仕立てにします。



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キュウリの畝。



一年目の果樹苗も勢いよく生長してきています。

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白桃(桃)



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貴陽(スモモ)



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ハリウッド(スモモ)



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別の場所の畑に行くときに木苺を見つけた。
子供の頃よく食べていた記憶がある。



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畑を取り囲む木々と山。
生命力溢れる鮮やかな緑がとてもまぶしい。

“今ここにあるもの”が奇跡なのだと思う。

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# by yamanomajo | 2018-06-14 19:47 | 自然農