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星といのちのうた 人生のすべてが祈りでありますように

子供たちとの対話 考えてごらん / J.クリシュナムルティ


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君は、地面に落ちる木の葉が死を恐れていると考えますか。鳥は死を恐れていると考えますか。鳥は死が来るとき、死に出会います。しかし、鳥は死に関心を持たないし、生きること、昆虫を捕まえたり、巣を作ったり、歌を歌ったり、ただ飛ぶことの喜びのために飛ぶことで、精一杯です。君は鳥たちが羽ばたきもせず、空高く舞い上がり、風に乗っているのを眺めたことがありますか。なんて果てしなく、楽しんでいるように見えるのでしょう! 彼らは死に関心がありません。死が来るならそれでけっこう、彼らはおしまいです。どうなっていくのかについての関心はありません。彼らは刻々と生きているでしょう。いつも死に関心を持っているのは、私たち人間です。なぜなら、私たちは生きていないからです。それが悩みです。私たちは死にかけていて、生きていないのです。年寄りは墓に近いですが、若者もそんなに後のことではありません。

私たちは知っているものや、蓄えたものを失うのを恐れているから、こうして死の心配をしていますね。私たちは妻や夫、子供や友人を失うことを恐れています。学んだり、蓄積したものを失うことを恐れています。もしも蓄えたすべてのもの―友だちや所有物、美徳、人格を持っていけたなら、そのときには死を恐れないでしょう。しかし、事実として死が終わりであるのですが、私たちのほとんどはこの事実に向き合おうとしないのです。知っているものから離れたくないのです。それで、私たちに恐怖を生じさせるのは、知らないものではなくて、知っているものにすがりつくからです。心は知っているものからできているので、「私はおしまいだ」と言って、そのために怯えているのです。

そこで、未来に関心を持たずに、刻々と生き、明日についての考えもなく生きることができるなら、―それは、単に今日のことで精一杯であるという表面的なことではありません―知っていることの過程すべてに気づいていて、知っていることを放棄し、完全に手放してしまうなら、そのときには驚くべきことが起きるのに気づくでしょう。一日でもやってごらんなさい。知っていることをすべて片づけ、忘れてしまい、ただどうなるのかをごらんなさい。心配を日から日へ、時から時へ、刻々と持ち越してはいけません。すべて手放してしまいなさい。すると、この自由から、生きることと死ぬことをともに含んだ、とてつもない生が訪れるのがわかるでしょう。

死は何かの終わりにすぎません。そして、まさにその死によって、新たになるのです。


死は実に大きな存在です。心が恐怖から本当に自由でないかぎり、死のとてつもない美しさと強さと生命力を理解する可能性はありません。

私が恐れているのは何でしょう。死に怯えるとはどういう意味でしょう。それは知っているものを、意識の内容を失うことですか。

執着、依存、取得したもの、権力、地位、不安―すべてを理解する。それらがなくなることが本当の死なのです。したがって意識を空にするとは、その内容により自分を限定した意識が終わるという意味です。

思考とは時間です。思考の生み出すものはすべて時間の中にあります。それでも思考は不滅を探求しています。思考自身の不滅と自分の作ったものの不滅を求めているのです。

人は意識を空にしないかぎり、その意識は河のように流れつづけます。溜まって蓄積されるのです。そして意識を見て、観察し、それを空にする人はその流れにまったく属しません。刻々と生きて、刻々と死ぬのです。内容が存在しないのです。とてつもない精力の活動があるのです。

それで時間が止まります。その美しさをごらんなさい。まさにその美しさこそが不滅です。それは思考が作ったものではありません。したがって生きることは死ぬことです。そして愛は本質的に死ぬことです。自我に対する死なのです。それは性愛とか嗜好とか、思考の名づけた愛ではなく、時間に対して死ぬことです。それで生と死と愛はひとつです。差別なく、分離なく、時間の中にありません。分離なく全体として生きて活動しています。そして、それが不滅です。











by yamanomajo | 2017-07-06 14:42 | 言葉