森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 2


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一日中あたりに気をくばり、夜になるとしぶしぶお祈りを唱えて、あやふやなものに身をゆだねる。こうしてわれわれは、自分の生活を後生大事に扱い、変革の可能性を否定しながら、徹頭徹尾追いつめられて生きなくてはならない。これがただひとつの生き方だ、というわけだ。

ところがじつは、ひとつの中心点からいくらでも半径が引けるように、生き方はいくらでもあるのである。あらゆる変革は奇跡と考えることができる。しかもそれは、不断に生起しつつある奇跡である。

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実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている。もし人間が実在の世界だけをしっかりと観察し、迷妄に陥らないようにすれば、人生は─―われわれが知っているものに例えると─―おとぎ話やアラビアンナイトのようになるだろう。必然的なもの、存在する権利のあるものだけを尊重するなら、詩と音楽が通りに鳴り響くだろう。急がず賢明に生きてゆけば、偉大な、価値あるものだけが永遠の絶対的存在であり、卑小な不安や快楽は、実在の影にすぎないことをわれわれは知るだろう。実在するものは常に心楽しく、崇高である。だが、人々は目を閉じて眠りこけ、甘んじて外見に惑わされているために、あらゆるところで型にはまった因習的な日常生活を打ち建て、固定させている。そうした生活は、やはり純然たる幻想を基盤としているのだ。

遊ぶことが生きることにほかならない子供たちは、人生の真の法則や、それとの関わり方を大人よりもよく知っている。ところが大人のほうは、生きるに価する人生を送ることができないくせに、経験――つまり失敗――によって子供たちよりも賢くなったと思い込んでいるのである。

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思うに、われわれが現にこれほどくだらない生活を送っているのは、ものごとの表面をつらぬく洞察力を欠いているからである。われわれは存在するように“見える”ものを、“存在する”ものと思い込んでいる。ある人間がこの町を通り抜けて、実在の姿だけを見るとしたら、コンコードの中心にある「ミル・ダム商店街」などはどこへ消えてしまうことやら。教会、裁判所、刑務所、商店、住宅などを見かけたら、徹底的に凝視することによってどんな正体があらわれるか、口に出して言ってみるとよい。話しているあいだに、それらすべてはこなごなに砕けてしまうだろう。

人々は真理が、太陽系のはずれとか、いちばん遠い星のむこうといった、はるか彼方に存在するか、アダム以前なり、最後の人間のあとに存在すると考えている。永遠の時間には、確かに真実で崇高なものがある。けれども、そうした時間や場所や機会はすべて、いま、ここにあるのだ。神自身もいまこの瞬間、栄光の頂点に達している。あらゆる時代が通り過ぎてゆくあいだも、神がいまほど神聖なときはふたたびめぐってこないだろう。したがってわれわれは、自分をとりまく実在の世界をたえず内部に浸透させ、そこに身を浸すことによってのみ、崇高にして気高いものを理解することができるのである。

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じっくりと腰を据え、意見、偏見、伝統、妄想、外見といった泥沼、それに教会や州はもとより、詩や哲学や宗教に至るまで遠慮なく突き破り、ついに足が“実在”と呼ばれる堅い岩盤にうまく届いたら、これだ、間違いない、と言おうではないか。生であろうと死であろうと、われわれが求めるものは実在だけである。もしわれわれが本当に死にかけているのなら、喉がぜいぜい鳴る音を聞き、手足の先が冷たくなるのを感じ取ろうではないか。もし生きているのなら、なすべき仕事に取りかかろう。

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by yamanomajo | 2017-07-13 07:42 | 言葉