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星といのちのうた 人生のすべてが祈りでありますように

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 3


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このうえなく親切でやさしい、けがれのない、心の励みになる交際相手は、自然界の事物のなかに発見できるものである。「自然」のまっただなかで暮らし、自分の五感をしっかりと失わないでいる人間は、ひどく暗い憂鬱症にとりつかれることなどあり得ない。かつては、健康でけがれのない耳には、どんな嵐も風神アイオロスの音楽のように聞こえたものだった。単純な、勇気のある人間は、なにがあろうとむやみに低俗な悲哀に打ちのめされたりはしない。四季を友として生きるかぎり、私はなにがあろうと人生を重荷と感じることはないだろう。



突然私は「自然」が――雨だれの音や、家のまわりのすべての音や光景が――とてもやさしい、情け深い交際仲間であることに気づき、たちまち筆舌につくしがたい無限の懐かしさがこみあげてきて、大気のように私を包み、人間が近くにいればなにかと好都合ではないかといった考えはすっかり無意味となってしまい、それ以来、二度と私をわずらわせることはなかった。マツの葉一本一本が共感にあふれて伸び、ふくらみ、友情の手をさし伸べていた。私は、荒々しくもわびしげなものと呼び慣わされている風景にも、自分との近縁関係をありありと感じるようになり、さらにまた、自分との血縁がいちばん近くて、なによりも人間的に思えるものは、人間でも村人でもないことがはっきりわかったので、もはやどんな場所へ行っても、二度と違和感をおぼえることはないだろうと思った。



私は、大部分の時間をひとりですごすのが健康的だと思っている。相手がいくら立派でも、人とつきあえばすぐに退屈するし、疲れてしまうものだ。私はひとりでいるのが好きだ。孤独ほどつきあいやすい友達には出会ったためしがない。



人間同士の交際は、一般にあまりにも安っぽすぎる。われわれは互いが益する新しい価値を身につけるためには、ろくに時間を使わなかったくせに、ほとんど間断なく顔を突き合わせている。一日三回、食事だといっては集まり、たがいに鼻もちならないカビの生えた古チーズ――つまりわれわれ自身――をそのつど相手に差し出す。われわれは郵便局や親睦会で、また、毎晩のように炉辺で顔を合わせる。われわれは肩を寄せあって暮らし、たがいに邪魔しあい、たがいにつまづきあう。思うに、こうしておたがいへの尊敬心を失っていくのだ。もっと出会いの回数を減らしたところで、たいせつな、心のこもったつきあいは十分可能であろうに。むしろ私が住んでいる場所のように、一平方マイルにひとりの住人しかいないほうがいい。人間の価値は皮膚にあるのだから、さわってみなくてはわからない、というわけではあるまい。



私の家のなかには、おおぜいの仲間がいるのである。とくに、訪れる人もいない午前中などは。私の置かれた状況を理解していただくために、二、三の比喩で説明してみよう。私は、けたたましい声で笑うアビやウォールデン湖そのものと同じように、少しも寂しくはない。ほう、あんな孤独な湖にどんな仲間がいるのかね? ところが、ある群青の湖水のなかには、青い陰気な悪魔ではなくて、青い衣の天使が住んでいるのだ。太陽だってひとりである。曇天のときにはふたりに見えることもあるが、ひとりはにせの太陽なのだ。神もひとりである。ところが悪魔となると、ひとりどころか無数の仲間に囲まれ、まさに大軍(レギオン)をなしている。私は牧場に咲く一本のモウズイカやタンポポ、マメの葉やスイバ、アブやマルハナバチと同じように、ちっとも寂しくはない。村の中心を流れるミル・ブルックや風見、北極星、南風、四月のにわか雨、一月の雪解け、新築の家にあらわれる最初のクモなどが寂しくないのと同じように、私も寂しくはないのだ。











by yamanomajo | 2017-10-29 07:07 | 言葉