最後の日記 / J.クリシュナムルティ


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『死とは何だろう』

すがすがしい朝、真っ直ぐな道を歩いた。春で、空はこのうえもなく青かった。一片の雲もなく、太陽は暑すぎもせず、暖かだった。気分がよかった。木の葉は日に映え、大気には輝きがあった。ほんとうに考えられないほどの美しい朝だった。奥知れぬ高い山があり、その下の丘は緑に包まれて麗しかった。何も考えずに静かに歩みを進めてゆくと、黄と真紅に色づいた昨秋からの落葉が一枚眼に止まった。その落葉のなんと美しいことか。枯れたままで生き生きとしており、木全体と夏の持つ美と活力に溢れていた。朽ち果てていないのが奇妙だった。さらに眼をこらすと、その葉の葉脈や軸や形が見えた。葉はその木の全体だったのだ。

なぜ人間はこの木の葉のように自然に美しく死ねないのだろう? われわれはどこが間違っているのだろう? 医者や薬や病院や手術、それに生きる上の苦しみ、楽しみなど、もろもろのものがあるにもかかわらず、われわれは威厳と素朴さと微笑のある死に方ができないように思われる。

子供に計算や読み書きを教え、知識を蓄えさせるなら、いずれは対面しなければならない陰鬱な不幸なものとしてではなく、毎日の生活の中のものとして――青空や木の葉の上のキリギリスを眺める日常生活の一部として、死の偉大な尊厳をも教えなくてはならない。歯が生えたり、子供のかかる病のすべての不愉快さを味わうように、それは学びの一部分なのである。子供たちには並外れた好奇心がある。もし死の本質が分かるなら、すべてのものは死んで塵に帰るのだというような説明をしないで、恐怖心を持たないように優しく説明し、生きることと死ぬことはひとつであり――五十歳、六十歳、九十歳のあとの生の終わりでなく、死はあの木の葉のようなものだと子供たちに感じさせられるだろう。

死は常に理解しうるし、深く感じ取れるものだと思う。子供は好奇心が強いので、死は病や老衰や思いがけない事故で身体が駄目になってしまうだけのことではなく、毎日の終わりはまた毎日の自分自身の終わりでもあるのだということを理解させるように助けることができる。

この地上のあらゆるもの、この美しい地球上のあらゆるものは、生き、死に、生まれ来たり、凋み去る。このすべての生の動きを理解するには英知がいる。思考や本や知識の英知ではなく、感受性に富んだ愛と慈悲の英知である。もし教育者が死の意義とその尊厳、死ぬことの途方もない単純さを理解するなら――それも知的にではなく深く理解するなら――生徒や子供にはっきり伝えられるだろう。死ぬということ、終わりが来ることは避けるべきでなく、恐れるべきものでもなく、われわれの生の一部なのであり、したがって大人になるにつれて、終わりがあることを怖がることはなくなる、と。

あらゆる美と色彩をそなえたその落葉を眺めると、人の死というのは、それも生の終わりにではなくごくはじめから、どんなものでなくてはならないのかを、たぶん非常に深いところから理解し、気づくだろう。死とは何か恐ろしいものでも、逃げたり先に延ばしたりするものでもなく、日の明け暮れとともにあるものなのだ。そのことから、想像を絶した無限の感覚が訪れるのである。

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by yamanomajo | 2018-02-01 17:52 | 言葉