2024年 12月 13日
死とは何だろう
『死とは何だろう』
すがすがしい朝、真っ直ぐな道を歩いた。春で、空はこのうえもなく青かった。一片の雲もなく、太陽は暑すぎもせず、暖かだった。気分がよかった。木の葉は日に映え、大気には輝きがあった。ほんとうに考えられないほどの美しい朝だった。奥知れぬ高い山があり、その下の丘は緑に包まれて麗しかった。何も考えずに静かに歩みを進めてゆくと、黄と真紅に色づいた昨秋からの落葉が一枚眼に止まった。その落葉のなんと美しいことか。枯れたままで生き生きとしており、木全体と夏の持つ美と活力に溢れていた。朽ち果てていないのが奇妙だった。さらに眼をこらすと、その葉の葉脈や軸や形が見えた。葉はその木の全体だったのだ。
なぜ人間はあんなに惨めに、不幸せに、病や老齢や老衰で、身体は曲がり、醜いままに死ぬのだろう? なぜこの木の葉のように自然に美しく死ねないのだろう? われわれはどこが間違っているのだろう? 医者や薬や病院や手術、それに生きる上の苦しみ、楽しみなど、もろもろのものがあるにもかかわらず、われわれは威厳と素朴さと微笑のある死に方ができないように思われる。
子供に計算や読み書きを教え、知識を蓄えさせるなら、いずれは対面しなければならない陰鬱な不幸なものとしてではなく、毎日の生活の中のものとして――青空や木の葉の上のキリギリスを眺める日常生活の一部として、死の偉大な尊厳をも教えなくてはならない。歯が生えたり、子供のかかる病のすべての不愉快さを味わうように、それは学びの一部分なのである。子供たちには並外れた好奇心がある。もし死の本質が分かるなら、すべてのものは死んで塵に帰るのだというような説明をしないで、恐怖心を持たないように優しく説明し、生きることと死ぬことはひとつであり――五十歳、六十歳、九十歳のあとの生の終わりでなく、死はあの木の葉のようなものだと子供たちに感じさせられるだろう。
年とった男や女を見るがよい。なんと老衰し、迷い、不幸で醜く見えることか。それは生のことも死のことも実際には何も理解しなかったからではないか? 彼らは生を使い切り、自己、「わたし」、自我を育て、それに力を添えるだけの絶えまない葛藤によって、自分たちの生を浪費しきるのである。時には歓びや楽しみもあるが、われわれは酒を飲んだり、煙草を吸ったり、夜更かしをしたり、仕事、仕事、仕事で、さまざまな葛藤と不幸せの中に毎日を過ごす。そして一生の終わりに死と呼ばれるものに対面し、それを恐れるのである。死は常に理解しうるし、深く感じ取れるものだと思う。子供は好奇心が強いので、死は病や老衰や思いがけない事故で身体が駄目になってしまうだけのことではなく、毎日の終わりはまた毎日の自分自身の終わりでもあるのだということを理解させるように助けることができる。
この地上のあらゆるもの、この美しい地球上のあらゆるものは、生き、死に、生まれ来たり、凋み去る。このすべての生の動きを理解するには英知がいる。思考や本や知識の英知ではなく、感受性に富んだ愛と慈悲の英知である。もし教育者が死の意義とその尊厳、死ぬことの途方もない単純さを理解するなら――それも知的にではなく深く理解するなら――生徒や子供にはっきり伝えられるだろう。死ぬということ、終わりが来ることは避けるべきでなく、恐れるべきものでもなく、われわれの生の一部なのであり、したがって大人になるにつれて、終わりがあることを怖がることはなくなる、と。われわれよりも前に、何代も何代も前に生きていた人間がすべて今でもこの地上に生きているとしたら、なんと恐ろしいことだろうか? はじまりは終わりではない。
そしてわたしは助けたい――いやこれは誤った用語で――教育の中で、死を現実として、誰か他のひとが死ぬというのではなく、われわれの誰もが老若にかかわりなく直面するのを避けられないのだという実感でとらえられるようにしたいのだ。このことは悲しくて涙を流すような問題でも、孤独や離別の問題でもない。
あらゆる美と色彩をそなえたその落葉を眺めると、人の死というのは、それも生の終わりにではなくごくはじめから、どんなものでなくてはならないのかを、たぶん非常に深いところから理解し、気づくだろう。死とは何か恐ろしいものでも、逃げたり先に延ばしたりするものでもなく、日の明け暮れとともにあるものなのだ。そのことから、想像を絶した無限の感覚が訪れるのである。
最後の日記 / J.クリシュナムルティ
by yamanomajo
| 2024-12-13 18:30
| 言葉・本