もと居た所 / 井亀あおい


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もう、ビルがふたつも建ってしまったね。ぼくにとっては、とても邪魔なんだよ。いいかい、マルセル。ぼくには見える、何もとらえどころのない、ぬっぺらぼうのビルが沢山建っている。それだけじゃ足りなくて、ビルとビルのすきまに小さな家が沢山建つ。それだけでも人間は足りないと言うんだよ。その家の中に家具を運びこむんだ。どの木のたんすがいい、とかどの布張りのディヴァンがいい、とか品定めしているけれど、結局同じだよ。運びこんだ家具に、またいろんなものをつめる。奥様方は、宝石がひとつなくなると総理大臣まで呼び出して探させるんだよ。だんな方は、愛書の金モールが少しとれたと言っては、一日中その古書とにらめっこするんだよ、ね、マルセル。ものがあんまり多すぎる。多すぎて、ほんとうのものが隠れてしまっているよ。ものをすべて取り去ったら、ほんとうのものが見えるのに。ものがあんまり多すぎるんだ。人間はまたビルを建てる。またひとつ、ほんとうのものを隠すものが増えてしまった。とても、邪魔なんだ。分かるね。邪魔に思えるんだ。

――ものが多すぎる。それに、人が多すぎる。それを取り去れば、ぼくらにはほんとうのものが見えるんだよ。でも、誰もそれを取り去ろうとはしないんだね。宝石ひとつ、金モールひとつなくしても大さわぎするんだね。火事で家がなくなっても、同じくらい泣いたり騒いだりするんだね。

人だって、多すぎる。みんな、自分が飾る鎧をどんどんつぎ足していって、しまいにはその鎧だけが残って、それで「人」だと思い込んでいる。“しん”までうわべの人間だのに。そんな人は、もう人じゃない。取り去ってしまわないと、ほんとうの人が見えないんだ。だのにみんな、うんと立派な鎧をつくりあげた「偉い人たち」をまつりあげて、そんな人を増やそうとしているんだ。子供は、まだいい。鎧なんかつくって、ほんとうの人を見えなくすることがないもの。でも、その子供も、自分の持っている人形がなくなると大声で泣くんだ。

――ぼくは覚えているよ、マルセル。ずっと以前、“ここではない”所に「真」があったことを。そこは、ほんとうに、今の“ここ”じゃなかった。でも確かにぼくはそこにいた。そこは、何もないよ。色彩、そうだね、夜が明ける時のように、向こうの方が明るくて、上の方は重々しくたれこめている。そんなところだ。まわりに人なんていない。ほんとうに何もないんだよ。そしてそこに「真」があったんだ。ぼくは覚えているよ。ぼくは確かにそこにいたことがある。

すべての、多すぎるものを取り去ってしまえば、あの以前の、そうだね、「もと居た場所」があらわれるんだ。そしてそこにある真が見えるんだ。すべてのものを取り去ってしまえば、だよ。ぼくらは「もと居た場所」の上に、バターか何かを塗るみたいにいらないものを厚くぬりつけて隠してしまったんだね。そして、それが「真」だと思っている。それが少しでも欠けると、もう泣き出すんだ。でも、ほんとうの「真」はすべてを取り去った所にあるんだ。どうしてみんな分からないんだろう。あの火事で、邪魔なものが少しなくなった。もう少し取り去ると、「もと居た場所」がすきまから見えてくるはずなんだ。ぼくは、火がいらないものを取り去るのを手伝おうとしたんだよ。ほんとうの空を隠している空をはぎ取ろうとしてね。でも、火は消されてしまったし、ぼくの手は空を少ししかはぎ取れなかった。みんな泣き叫んでいたよ。宝石や、金モールや、人形が燃えてしまったんだね。

――マルセル、すべてを取り去って何もなくなってしまったら、そこにこそ「真」があるんだ。ぼくら、そこに行きつけないはずはないんだよ。だって、「もと居た場所」なんだからね。すべてをとり去りさえすればいいんだ。とり去りさえすればいいんだよ。多すぎるもの、多すぎる人、うその空。うその地面をとり去りさえすれば。

でもね、宝石や金モールがなくなっただけであれほど泣くのなら、どうして人は真に出会えるだろうね。どうして、すべてのものを捨てずに「真」と出会えるだろうね。マルセル、とても哀しいよ。―

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by yamanomajo | 2018-04-06 19:26 | 言葉