キルケゴールの言葉 2


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単独者として生きることは何よりも恐ろしいことだということを学んだ者は、単独者として生きることはもっとも偉大なことである、と言うにはばからないであろう。

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一般に、孤独への要求は、人間のうちにはたしかに精神があるということのしるしをなし、またそこにある精神がどんなものかを測る尺度である。「ただおしゃべりだけをしている世間人」は、孤独への要求などを少しも感ぜず、ほんの一瞬間たりと一人でいなければならなくなると、ちょうど群棲鳥のように、直ちに死んでしまう程である。このような人々は、幼児が子守歌を歌って寝かしつけられなければならないのと同じように、食べたり、飲んだり、眠ったり、祈ったり、恋をしたりなどできるためには、社交という名の子守歌によって心に安心をうることを必要としているのである。しかし古代においても中世においても、人はこの孤独への要求を気づいていたし、また、それが意味するものへ尊敬をはらっていた。ところが、現代という社会そのものの時代においては、人は、孤独というものを、犯罪者に対する刑罰として以外にはそれを用いるすべを知らないほどに、それ程にまで恐れているのである。

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世間では、元来、どうでもよいことだけが云々される。だから世間では、いつもこのどうでもよいことが一番問題となっているわけである。要するに、世俗性とはまさに、どうでもよいことに無限の価値を付与することそのことである。

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公共とは誰もが身をもってそれに参与することを許されない幻である。

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公共とは、一切にして無であり、それはあらゆる勢力のうちで最も危険なものであってしかも最も無意味なものである。人は公共の名において全国民に向かって語ることができるが、しかもその公共たるや、ただ一人の人間がどんなに少ないとしても、そのただ一人の現実の人間よりももっと少ないものである。公共という規定は、個人個人を奇術にかけて空想的にしてしまう反省の手品である。それというのも、この手品にかかると、各人が、それに比べると現実の具体性がみすぼらしく思えてくるこの巨大な怪物を、あえてわがものにすることができるからである。公共は、単独の人々を空想的に一民族を支配する帝王にもまして大いなるものたらしめるところの、分別の時代のおとぎ話である。しかし、公共はまた、それによって個々人が宗教的に教化されるところの、さもなくば没落していくところの、恐るべき抽象性である。

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大衆は不真実である。その場合大衆というのは、この、または、あの大衆のことではない。生きている、または、死んでしまった大衆のことではない。卑しい、または、貴い大衆のことでもない。富める、または、貧しい大衆のことでもない。・・・概念として理解された大衆ということである。

大衆に関する虚構の第一は、まず実際には大衆の中の個々の人間がやっているにすぎないことを、あるいは、いかなる場合においても、結局は一人一人がしていることを、「大衆(みんな)」がやっているのだというふうにみなしてしまう点にある。それが虚構のわけは、そもそも「大衆」というものは、手などをもっていない抽象物だからである。

次に虚構の第二は、すべての個人のうちのもっとも臆病者でさえも大衆がそうである程には臆病であったためしは一度もなかったため、大衆にはそれをやってのける「勇気」があるというふうにみなしてしまう点にある。これが虚構であるわけは、大衆の中に逃げ込んでしまって、臆病にもひとりの個人であることを回避する人間は、大衆という「臆病そのもの」に自分の臆病を一枚加えることになるからである。

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大衆は虚構である。そのためキリストは十字架につけられたもうた。なぜなら、キリストはすべての人々におもむいてゆかれたが、大衆とは決してかかわりあいになろうとはされなかったからであり、彼はいかなる仕方においても大衆を助けにもとうとされなかったからであり、彼は、この点に関しては無条件的に大衆から離れ、党派をつくろうとはせず、また投票を許さず、ただ彼自身であろうとされ、つまり、単独者に関わる真理であろうとされたからである。そこでこのゆえに、真実に真理に仕えようとする者は誰でも“それだけ”で何らかの意味において殉教者なのである。

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by yamanomajo | 2018-04-16 20:46 | 言葉