ウィトゲンシュタインの言葉


人が「神が世界を創造した」と言い、「神は絶えず世界を創造している」と言わないのは不思議なことだ。というのも“世界が始まった”ということが、なぜ、“世界があり続けている”ということよりも大きな奇跡でなければならないのか。
神が世界を創造したとして、今ここにある世界はいったい何なのか。創造されたその世界がまだ持続してここに存在しているほうがより大きな奇跡ではないだろうか。
いや、そもそも、世界の創造と持続は同じ一つのことではないか。
つまり、神はまだ世界に深く関わっている。

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科学というものが自然や人間を解明しているのだと本気で信じ込んでいる人は、やがて退屈になって眠気に襲われるだろう。
自然の成り立ちや仕組みがすべて科学によって説明されていると闇雲に信じ、自分にはその理屈はよくわからないながらもきっとそういうものだと信じきってしまった以上、自分で考えることも感じることもなくなり、何事にも飽き飽きしてくるからだ。
そういう人はもはや自然の現象に驚かなくなる。神秘に感動することがなくなる。そのあげく、怖さも畏れも失ってしまう。
やがて人間に対しても興味を失い、生きることがとても億劫になってしまうだろう。

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多くの人は神秘的な印象を与えてくれるものが好きだ。そして、周りに溢れていて見知った事柄を神秘的だと思うことすらない。
だから、昨晩に見た夢について語り、感性について語り、美だの愛だの思想だのについておしゃべりをする。しかし、自分の部屋の机や鉛筆については少しも語らない。
どうしてだろう。ふだんから使っている机や鉛筆や枕や靴だって、夢だの愛だの感性だのと同じくらい神秘的ではないだろうか。そんなありふれたものもまた神秘的だということもわからないのだろうか。

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マンネリになったこの日常にあきあきした私たちは、どこか遠くへ行けば何か特別な新しい体験ができると思いがちだ。何かもっと自分の人生にとって意味深い体験がどこかにあるはずだと夢想する。
しかし、他人が日常として暮らしている別の場所に行く必要などない。本当の謎はこの日常の中にたくさん埋もれているからだ。
決まった手順で安易にやりすごしている毎日の生活の中にこそ、人生と世界の深みはひそんでいる。そのことに気づいた時、私たちの日々はがらりと変わり、何もかもが新しくなる。

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「時間が経つ」
「時が過ぎ去る」
「時間の流れ」
「時間の浪費」
私たちはこのような言い方をし、このように信じている。
しかし、時間があたかも流れていくように感じてしまうのは、何かの過程、たとえば時計の針の動きという過程が添えられるときだけだ。
そういう別のものが添えられないかぎり、時間はそういうふうに流れていくことはない。

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太陽の熱ときれいな水、そして光が充分に与えられたときに芽が出てくるものだ。早く成長させようと力づくで引っ張っても、芽は出てこないどころか死んでしまう。
その扱い方は、他の事柄についても同じだ。

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本当に革新すべきは自分自身ではないのか。自分がすっかり新しくなれば、自分が取り巻く世界も変わるのだから。

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世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌する。
そして、君自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう。



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by yamanomajo | 2018-05-13 19:21 | 言葉