いと低きもの / クリスティアン・ボバン


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愛には進歩もないし、いつの日か到達できる完璧さもありはしない。成熟し、理性にかなった、大人の愛などない。愛の前ではだれひとり大人ではなく、子供でしかありえない。放棄であり、無頓着であり、精神喪失の精神である子供の精神でしかありえない。

年齢は加算される。経験は積み重なる。理性は建設する。だが、子供の精神は数えず、積み上げず、築かない。つねに新しく、つねに世界のはじまりに向けて、愛の最初の歩みに向けて再出発する。

理性の人は、積み重ねられ、積み上げられ、建設された人間だ。幼年の人は、自分に加算する人間の逆、自分を脱し、すべてのまったき誕生において再生する人間である。球で遊ぶ愚者。あるいは、自分の神に話しかける聖者。あるいは、その両方。

この世界には、世界に逆らう何かがあって、この何かは、教会のなかにも、文化のなかにも存在せず、人間が自分について持つ考えのなかにも、人間が真面目で大人で理性的な存在である自分について持つ致命的な信仰のなかにも存在せず、それはものではなく、神であり、神はどんな場所にあっても、すぐにその場所を揺るがし、打ち壊してしまう。

巨大な神は、幼年期の繰り返しのなか、貧者たちの流した血のなか、素朴なものたちの声のなかにしか、その身を保ちえない。そうしたものたちは総出で、自分の開かれた掌に神をすくう。雨に打たれたパンのようにびしょ濡れになり、震え、鳴き叫ぶこの雀をすくう。泣きわめきながら、裸の手のなかに餌を食べに来るこの神をすくう。

神とは、大人には知りえず、子供が知るものである。

大人には、雀に餌をやり、時間を無駄にしている暇がないのだ。

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by yamanomajo | 2018-05-31 19:41 | 言葉