開かれた心 / バーナデット・ロバーツ


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「開かれた心」とは、自分の主観的な物の見方や、成長の妨害となるような見解・判断に執着しない精神です。それは他の観点や代案を見て、洞察や理解を――うまくいけば叡智をも――得ることができる精神です。

・・・そして、「開かれた心」への真の鍵は、判断そのものの停止にほかならないということです。ここでいう「判断」とは、私たちが物事を見るときのメガネという意味です。私たちはそのメガネを通して、人を自分の基準で裁き、良いとか悪いとか関心がないなどと品定めします。これも判断に違いありません。自分の観点に従って、物事がどうあらねばならないかを期待(判断)し続けるなら、物事を私たちの外部にあるものとして、ありのままに見ることはできません。このように期待するなら、時々刻々変化する他人をありのままに見ることができず、他者における変化と成長を無視することになってしまうでしょう――自分自身についてと同様に。最初に出会ったときの印象が最後まで変わらないということはよくありますが、それは、よかれあしかれ、私たちが最初のイメージにしがみついて変化を認めようとしないからです。つまり、イメージを形成すること自体、ある種の判断なのです。

こうした無意識の判断に終止符を打つことは、自分の偏った意見や限定的な見方に執着しなくなることです。それは、他人の悪口を言うこと(自分の評価を上げるための無意識的な戦略)をやめるとともに、各人の物の見方に正当性を認めることです。自分の見方に固着して、理解の共通基盤を見出せないなら、どんな会話もくだらないおしゃべりになり、時間の無駄になるだけでしょう。

私心のない客観的な精神で、他者の言うことに判断を交えず耳を傾けられるようになると、私たち一人ひとりの魂の中にある扉が開きます。その扉は神の道の理解へと続き、慈愛がおのずと湧き上がってきます。したがって、「開かれた心」がもたらす最大の効果は、偏見のない愛と言えるでしょう。それは、たんなる寛容や自己犠牲や忍耐の要請を超えるもので、曖昧な沈黙でもなく、そこには「自分は悟った」という感覚などこれっぽっちもありません。

こうした客観性が身につくと、私たちは好き嫌いを超えた地平に到達し、開かれた明晰な精神で他者と出会うことが可能になります。そこには、既成のイメージも、自己防衛的な姿勢もありません。自己防衛の姿勢をとるとき、私たちは自分の価値観を基準にしてあらゆる人を判断しているのです。こうした客観性があれば、心理的に、あるいは暗黙のうちに、相手に自分の流儀を押しつけることがないので、周囲の人々はのびのびと自分らしく、ありのままに振る舞うことができます。他者を自由にさせることで、私たち自身も自由になり、そしてこのように互いが自由である中で、真の関係性とコミュニケーションが生まれます。しかし、他者にこの自由を与えるためには、まず私たちが自分自身に安らいでいなければなりません。そして合一生活の目的とは、この安らぎを与えること、人間関係に欠くべからざるこの自由を与えることなのです。

・・・「開かれた心」を求めて努力するとき、私たちはこの目的に向かって前進しています。この客観性へ向けての努力は容易なものではありません。なぜならそれは、自分がもっていることさえ知らなかった概念や「お守り」を捨て去ることを意味するからです。

観想生活の全過程に目を向けると、内的な変容に続いて、意識のさらなる変容がやってくることがわかります。それは、意識の中身すべてを空にすることです。この展開は微妙なものですが、やがて「私―意識」の深い根を露呈させることになり、私たちを「自分」という感覚の終点、最後の痕跡にまで連れて行くでしょう。この目的地に至る道として、私は「開かれた心」以外のものを知りません。

・・・この段階における進歩は、太陽の光に反応してゆっくり花が開く様子に似ています。つぼみが閉じているときには知り得なかった理解と慈愛という花が開くのです。この開示は、魂の成長のプロセスであり、それは完全に美しく成熟し、花弁が開ききって落ちるまで続きます。そして、花はついに消滅し、一巡して初めに戻ります。中心から離れるこの動き、つまり自己から離れるこの運動は、合一生活の徳によって可能になります。実のところ、徳の完全な開花の目的とは、自己を終わらせることにほかなりません。しかし、ひとたび花が散ってしまえば、この徳――この内的活力または運動――は消滅し、自己はもはや存在しないのです。


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「開かれた心」に関する章で、私は「判断」という言葉を使っていますが、それは意識的に行われる道徳的判断のことではなく、心の自動的な識別作用を指しています。この無意識的な識別作用は、それ自体、微細な形態の判断なのですが、自己意識とあまりにも密接に結びついているため、この作用が停止すれば、自己意識も停止してしまうでしょう。一例をあげるなら、私たちは人と会ったとたん、反射的に自分自身を意識します。そしてこの反射(再帰)的な内省作用と共に、連想作用が働き始めます。けれども、私たちはこの微妙な識別作用を経ずに世界や人々を見られるようにならなければ、それらをありのままに見ることはできないのです。それまでは、それらを自分の中にあるイメージとして見ているだけであり、それはあるがままを見ることとはまったく異なります。私たちは、他者をまったく新たなものとして、あるいは初めて会ったときのように見ることができなければ、他者の中にも自分自身の中にも変化を起こすことはできません。ですから、私が今述べている微妙なかたちの識別作用は、より完全な慈愛、同情、赦し、正義などを求めるうえでの妨げになるのです。

ここで理解すべき重要な点は、この瞬時に反応する意識は対象を自動的な識別するということです。こうした識別作用を行っているさなかにその心に気づくようになるなら、私たちはやがて、心が自らを意識する行為の真っ最中に、その心をつかまえられるようになるでしょう。私がこの章で述べておきたかったのは、心には自動的な無意識の活動があり、その活動において、識別作用と自己意識は別物ではない(すなわち、識別作用の停止は自己意識の停止に等しい)ということの発見だったのです。

そのときは気づかないかもしれませんが、この発見は、やがて訪れる自己意識の停止に向けての重要な洞察ないし準備となります。この識別作用は、当初は微細なレベルでの判断であるように思われますが、やがて、微細なレベルでの自己意識であることが判明するのです。

神はいずこに―キリスト教における悟りとその超越 / バーナデット・ロバーツ

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by yamanomajo | 2018-06-21 20:08 | 言葉