ぼくの命は言葉とともにある / 福島智


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「音」には色彩があり、きらめきがある。そして、常に「時間」とともに音は流れる。「光」が一瞬の認識につながる感覚だとすれば、「音」は生きた感情と共存する感覚なのかもしれない。

宇宙空間を実感したことがある。それも、地球の「夜の側」の空間のような、ほとんど光のささない真空の世界を。
「光」と「音」を失った高校生のころ、私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、狭くて暗く静かな「世界」。
ここはどこだろう。私は限定のない暗黒の真空の中で呻吟していた。

…「光」が認識につながり、「音」が感情につながるとすれば、「言葉」は魂と結びつく働きをするのだと思う。
私が幽閉された「暗黒の真空」から私を解放してくれたものが「言葉」であり、私の魂に命を吹き込んでくれたものも「言葉」だった。


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私は十八歳で盲ろうになりました。そのときに、「どうして自分はこんな苦悩を経験しなければならないのか」と自問しました。その結果、「理由はわからないけれど、この苦悩には何か意味があるんだ」「これは自分の将来を光らせるために必要なものなんだ」と考えることにしようと決めたのです。
自分がなぜ生きているかわからないけれど、自分を生かしている何ものかがいるとすれば、その何ものかが私にこの苦悩を与えているのだろう。ならば、私に与えられている苦悩には何ものかの意図・意志が働いているはずだ、と思ったのです。

…自分のしんどさを、「将来を光らせるために必要なもの」というふうに考えようと自分に言い聞かせていたようです。また、自分の人生に使命というものがあるならば、それを果たさなければならない。その使命を果たすうえで、自分の身に起こっているつらさ・苦しさを潜り抜けなければならないのであればそうするしかない。

…宇宙の中で自分が存在しているのは自分の力によってではない――。そう考えると、自分が経験する苦悩も、自分の外部のどこかから「降ってきた」ようなものだと思うことができました。そう思うことによって、その降ってきたものをまず受け止めて、そのうえでどう生きるかが問題なのだろうと意識を転換しました。同時に、おそらくそこにしか自分の生きる道はない、自分の気持ちを落ち着かせ、納得させて生きる方法はそこにしかないだろうと思ったのです。

その結果、私は自分の使命を考え、それを受け止めようという気持ちになったのではないかと思います。


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自分の中にある「生きる意味」とか「宝」といったものに気づける人はどういう人なのでしょうか。はっきりとは言えませんが、一つの条件は「自分の弱さをとことん知っている人」ではないかと思います。自分が弱くて臆病な存在であり、醜い存在であるということをとことん見抜き、とことん経験する。あるいはどん底を経験する。それによって、自分を包んでいた嘘の飾りが剥がされて裸になっていく。


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「毎日、朝も晩も、横になる時には《神さま、石ころのように寝かして下さい。丸パンみたいに起こして下さい》と言うし、朝起きる際にはかならず、いつも同じように肩をすくめて《寝たらまんまる、起きたらぴんしゃん》と言っていた」

石のようにストーンと寝て、パンのようにふわっと起きる。それが幸せなんだという、農夫の素朴な願いを表した祈りの言葉です。
この言葉を見つけたとき、私は涙がこぼれました。その人にしかできないこととか、その人らしさといったせせこましい世界ではなく、もっと深く広々とした素朴な生の中で私たちには生きる意味が与えられているのではないかと思ったからです。

本当は一人ひとりの人間の「自分らしさ」など、さほどたいしたものではないようにも感じるのです。
私たちの個々の違いはそれほどたいしたものではない。それよりも人間として生きていること自体が第一に重要なことなのではないでしょうか。だから、命を与えられているということに対して、私たちはもっと謙虚になるべきだと思うのです。

「自分らしく生きよう」などと、気負ってあまりおおげさに考えず、もっと肩の力を抜けば、また違った生き方が見えてくるのではないでしょうか。


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仮にネット上のサイバー空間で、多くの人と連絡を取り合っていたとしても、それだけでは他者と十分交わっているとは言い切れないでしょう。なぜなら、たとえ相手が実名を使っていたとしても、SNSなどでつながる相手は文字言語という記号を媒介にヴァーチャルにつながっているにすぎないからです。もし、そうした相手とのつながりしかなければ、そうした相手がまとった仮想性や間接性が、そのまま自己に跳ね返ってくるのではないでしょうか。そして、もしそうなれば、自分自身という、具体的な人間存在のリアリティーまでが不確実になり、仮想的になってしまう危険性があるのではないかと私は思います。


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私は十八歳のとき、約三ヵ月で盲ろう者になったわけですが、その過程の最初の頃は「なんで俺だけ目が見えなくなって、しかも耳まで聞こえなくならなあかんのや」と思っていました。

けれど一ヵ月ほど経過して、もう一歩進んで考えてみて、見えないとか聞こえないというのは生きているから生じることじゃないかと気づくのです。それ以来、「じゃあ、そもそも生きている、この命があるということはなんなんだ」と考えるようになりました。

すると、それは非常に不思議なことだと思い至ります。なんで私が生きてきた(生きている)のかわからないのです。

両親から生まれたのは確かでしょうが、そもそも私という人間がいて、私という意識があるというのがすごく不思議です。そして、それは奇跡的なことなのではないかと思うようになりました。

そう考えたときに一つだけ言えることは、私は自分の力で存在しているのではない、ということです。私自身は「私」という存在自体の原因になっていない。つまり、私の存在という結果を生み出した原因は私ではないのです。では、何が原因なのかと言われるとわからないのですが、少なくとも私ではない何ものかが私という存在の背後に存在しているのだろうと感じました。それは多くの場合、神、あるいは宇宙などと呼ばれるものでしょう。とにかく私という存在を生み出した原因は私ではなく、なんらかの大いなる存在です。

このように考えてくると、私が見えないとか聞こえないとか、あるいはいつまで生きるのか、いつ死が訪れるのかというようなことは自分ではコントロールできず、自分ではわからない。それがぼんやりと感じられてきました。

そこで、そのとき経験していた苦悩は大いなる存在が与えたものなのだから、それにはなんらかの意味があるだろうと、当時の私は自身に言い聞かせていたのでした。こうした私の、いわば苦しまぎれに閃いた考えを思い出すとき、ヤスパースのいう、限界状況で超越者(神、包括者)の暗号に出会うという主張が、不思議に符号するのを感じて、私は胸が熱くなるのです。


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私は先ほど、「宇宙人に会うのが夢だ」と申し上げました。その夢は今も変わりませんが、実は既にその夢の一部は実現しています。なぜなら私たち全員は地球上にあって、太陽の周りを回りながら、そして天の川銀河の回転に乗りながら、大宇宙を共に旅する存在であり、まさに宇宙に共に生きている「宇宙人」同士だからです。

ぼくの命は言葉とともにある / 福島智

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by yamanomajo | 2018-08-02 19:38 | 言葉