ぼくの命は言葉とともにある / 福島智 2


宇宙の中の人類の存在にどれだけ意味があるかという問題を、私が強く意識したのは、神谷美恵子の文章に出会ったときです。神谷さんはもう亡くなりましたが、精神科医でハンセン病患者の医療にも従事した医師です。彼女自身、若い頃は結核で長く療養生活を送りました。その間に古今東西の書物に読みふけっています。
私の心にしみた文章は次のようなものです。


人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙のなかで、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。


もし誰か、ある人に存在の意味がないと考えたら、ではあなた自身にはあるのか、他の人にはあるのかと問う。さらに、そもそも宇宙の中に人類が存在することには意味があるのかと考えたときに、「ない」と考えればある個人の存在にも意味がないし、逆に「ある」と考えればどんな人間にも意味があるのではないかというわけです。

この文章に触れて、私は電気ショックを受けた感じになりました。フランクルを読んだときに抱いた同質性の感覚とは別の意味合いですが、私が感じていることと同じことが、より明晰に言語化されて示されていると思いました。
私たちは他の人と同じであろうとしたり、逆に個性にこだわって、すごく細かなことで他の人との違いを強調したりします。しかし、大きな視点で考えれば、私たちが生きているということ自体が極めて奇跡的なことです。

もし、宇宙の中に地球や人間が存在することになんらかの意味があるとすれば、それはあるゆる人間にとっての「存在意義」に違いありません。なぜなら、個人の能力や属性の違いなど、宇宙の視点からすれば問題にならないことだからです。
…そして、何か意味があるのだとすれば、それは限られた一部の人間だけでなく、どんな人間にも生きる意味がないとおかしいのではないでしょうか。どんな人間にも生きる意味がある。障害があるかないかとか、肌の色が違っているとか、そんなことは些細な違いでしかないはずです。


・・・


「生命は/自分自身だけで完結できないように/つくられているらしい」

この何気ない書き出しで始まる吉野弘の詩「生命(いのち)は」を一読し、私は何か眩しいものに出会ったような気がしました。

例えば幼い日。神戸の海沿いにあった実家の近くの高台から、息をのむ思いで眺めて夕日に染まりゆく瀬戸内海のきらめき。中学生の頃、初めてサイモンとガーファンクルの「スカボロー・フェア」を聴いたときのあの鳥肌のたつような、切なく輝くメロディー。

かつて、こうした「美」の感覚をもたらしてくれた光と音をすべて失ってしまった私は、忘れかけていた「魂の到達するような美しさ」を、この詩によって再び体験したのです。それは同時に、新しい世界観との出会いであり、明晰で、しかも温かな生命観との出会いでもありました。

吉野はこの詩を次のように続けます。

「花も/めしべとおしべが揃っているだけでは/不充分で/虫や風が訪れて/めしべとおしべを仲立ちする/生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」

「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」
このフレーズに出会ったときに受けた衝撃を、私は今も忘れられません。これはいのちのありよう、いのちといのちの関係性の本質を示した言葉であり、いのちの定義です。

「盲ろう」という一つの「欠如」を抱えた私が、コミュニケーションを媒介に他者と心を通わせるとき、そこに新しい関係性が生まれます。その関係性がある種の「触媒」の働きをし、私が直接・間接に触れ合った多くの人々の間に、目に見えない「内的化学反応」を巻き起こしていった気がします。


「生命は」 吉野弘

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命はすべて
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない


・・・


◆幸福の鍵を握る「ある」ということ

私たちは往々にして「持つこと」「所有すること」ばかりを追い求めてしまう傾向があるのではないでしょうか。お金や土地などだけでなく、地位や名誉、そして、時には他者をもまるで物であるかのように「所有」し、制御しようとしてしまう欲望に支配されているのではないでしょうか。

「持つこと」に伴う問題は、例えば、教育などの営みにおける知識の授受についても同様です。知識はそれを持つこと自体に意味があるのではなく、知識によってみずからの生き方を変容させ、その知識を他者とともに響き合わせることに意味があります。

「知能だけではなんの意味もないことをぼくは学んだ。あんたがたの大学では、知能や教育や知識が、偉大な偶像になっている。でもぼくは知ったんです。あんたがたが見逃しているものを。人間的な愛情の裏打ちの無い知能や教育なんてなんの値打ちもないってことです」

現実に自閉的障害を持っている詩人、原田大助も、「ある」ということについて詠っています。ここに示されている<世界>を把握する彼の感性には、人間を含めたあらゆる「もの」の存在価値を私たちにずしりと確信させる力強さがあります。


葉っぱだって石ころだって
そこにあるだけで
心を動かす力がある。
それが“ある”ということなんかな

星の光が見える
星と僕は知らないもの同志やけど
僕の心を動かす力を持ってるんやな

僕だってそこに“ある”
“ある”ものはみんな大切なんや。


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by yamanomajo | 2018-08-19 19:05 | 言葉