命を司る命


自転車を走らせながら自然を眺めているとき、
ふと「命そのものには死がない」という言葉が頭に浮かんだ。

命というものは死ぬことがない。
命を生かすもの、命そのものを生かしているものは、死ぬことがない。
物質としての命ではなく、物質としての命を支えている命には死がない。

生も死も司っているものには死がない。
生を行い、死をも行うものには死がない。
“死を起こすもの”には死がない。
“死を作り出しているもの”には死がない。

生物の体は老いるし、やがて死を迎える。
その生物(存在)の生と死を司っているものは生も死も超えている。
命を老いらせ、やがて死なせる力そのものには死がない。
命の上にある命には死がない。
それは常に生きている。

生を生み出すものは生を超えている。
死を生み出すものは死を超えている。
生を作り、生を維持し、死をも行う“力そのもの”は常に生きている。

宇宙に存在するすべては、この大きな力、大きな何かに包まれていて、
それによって維持され、守られ、同時に滅ぼされていく。

私たちは自分の意志によって生まれてきたわけではないし、
自分の意志どおりに死んでいくわけではない。
死にたくないと思っても必ず死はやってくる。
死を起こすもの、死を訪れさせるものは私たちの意志を超えている。
それは命を支える命の力、生も死も司る絶対的な何か。


金子みすゞの詩にこのようなものがある。


「蓮と鶏」

泥のなかから
蓮が咲く。

それをするのは
蓮じゃない。

卵のなかから
鶏がでる。

それをするのは
鶏じゃない。

それに私は
気がついた。
それも私の
せいじゃない。



蓮の花は蓮自身の力で咲くわけではない。
蓮の花は蓮自身の力で枯れていくわけでもない。

鶏は自分の力で卵を作るわけではない。
鶏は卵の殻を破る力を自分で得たわけではない。
鶏は自分の体を、自分の力を、自分で作り出したわけではない。

すべてはどこからか与えられたもの。包み込まれているもの。

そのことに気づいた自分もまた、自分の力でそうしたわけではない。
気づくという力を自分で生み出したわけではない。
自分とはかけ離れた、そもそも自分というものすらない、
まったく別の力がすべてを包み込み、浸透し、刻々と働き続けている。

この世のすべて、宇宙のすべてを。
宇宙そのものを。

私たちすべてを包み込んでいる何かがある。
目に見えない力、知ることのできない力。
この世のすべてを支える、決して消えることのない力。
時も空間も超えた、生も死も超えた力。
命の本質、命の根底にある力。
すべての源。


ただ命がある。
名もなき、命を司る命がある。


d0366590_13054107.jpg

[PR]
by yamanomajo | 2018-10-23 18:26 | 思い