2021年 02月 05日
美しき時 竹内てるよ詩集
「真実」
自分をうそつきに落す位ならばむしろ いさぎよく死のう社会は 真実に生きようとするものに全身の敗北 これ一つを残した
悲嘆は単なる身の上の不合理ではない貧乏や 病苦を泣いている時代はすぎた常に私は信ずるみちにひたむきであるたとえそのことのために誰にすてられても未来をもたない信頼進展のまえにしりごみする友情そんなものは 要らない
負けるな!私は天真の人間を感じながら幸いにも 常に 確信をもつ正しいみちに生きてゆくことの自負に心よ 一切を超克しよう
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「ひとりの時」
くれなずむ窓の下にすわってじっと いつまでも ひとりでいるその静かなる時が 私は好きだ一日の仕事も かきものも終わって新しい花など 花さしにさせば花のむらさきから 静かに夜が来るじっとすわってひとりのときほど最も大ぜいの人間であるときはない私は他人の不幸を自分の身内に感じひとしく自分の幸せを他人の上にうつしその血を同族のために流すそれほど高められたわけではないが決して孤独ではない
くれなずむ窓の下に一人すわってもし それが雨上がりでもあれば霧は ほのぼのと 北から暮れる宿望を胸にくりかえすまでもなく乏しい生活の借銭の申しわけも思わず無心に 風に揺れる白萩の枝を見つめるこんなときほど 幸せのときはない世界は私の中にひろがり生き 且つ働きつつある人々と私他人の屈辱に耳まで赤らめ自らの安静を人のためにわかつそのときほど謙遜で大ぜいのときはない
人のために死ぬと大言はしないが水のように心は静かに深みまさり一人のとき そして最も大ぜいのとき世界の切望は ひそかに胸に鳴ってああ 私は こんな時が一番好きだたとえ その放言を千人が笑ってもただひとり その涙をしればよい
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「わたくし」
ひろいこの地上にわたくしは何一つ持っていない
くらしもまずしいしいつも あまり丈夫ではない長く美しい くろかみも持たない併し わたくしは 持っている心のあたたかな友達と 美しい大空夕べ夕べの星たちと つつましき地上の花
さいごに たった一つささやかなる人生への愛と誠実人は いつまでも生きてはいないさびしき旅なるこの一生にこれ以上の 何が 要ろうものぞ
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「サルビア」
私のきょうの瞳をみたか六月の花 サルビアじっと両手をかさねて雨にけむる この花の紅をみているときりっと 心が勇んで来る
烈しい風に向かってすすめられるたたかいの旗のようにこんなにつよく こんなにあたたかく
私のきょうの頬の色をみたか六月の花 サルビアながい病患を終っていま更生の日が来た
生きてゆくべきこの人生に私は何一つ知らないたった一つのことの他は
きびしい苦悩の春秋に 失うべきものはすべて失いそして ただ一つのものを残したそれは かぐわしい人生への愛だ
私のきょうの髪の毛をみたか六月の花 サルビア微風に乱れ もつれながら毛根には漸くつやがかえって来た
女として母として生きるために失わざりしこの一つの愛こそは長き今後の生涯にかかげる私の聖火である
私の指先をみたか六月の花 サルビア人知れず土をおこして 古い日記を埋める爪のしっかりとした 私の指をみたか
よしんば今より後の生が 何でもあれ世界の女性がなすなるその生き方をもって花よ 私は立派に貫いて生きようこびず 恐れず おしみなくしかも確信をもって
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「ほたるぐさ」
なつぐさかさなりしげる その下に今年も ほたるぐさが 紫に咲いた
わが友よ 人生にはたった一つこの花に似た思いがある
富を思わず 名をいわず報い少なき仕事をしてその一生を 生きる人の深き誠実と 愛とである
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「女性の幸」
こころ静やかに幼きものに 乳をあたうるそのひとときの 深き女性の幸
やわらかき唇の小さき花びらはかぐわしく愛とまことを母の胸より吸えば育て 天地の花のごとく
こころ澄まして幼きものに乳あたうるそのひとときの 深き女性の幸
つゆほどもよこしまなる思いを許すことなく今日の母の清浄を遠き未来につなぐさわれこれにかわるべき偉業 女性になしこれにかわるべき偉業 女性になし
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「流雲」
雲がゆく秋 十一月の 青空よ
雲はたたずまい流れ 又たたずまいたやすく 私の部屋の光をさえぎる
私は 静かに光が再び来るのを待つ光からへだたれたこの地階に風は粛々(しょうしょう)と吹くので私は 毛布を引き上げじっと 光の来るのを待つ
ああ 待つということは何とたのしいことであろう運命がその身に幸せず暗く みじめなみちをゆくときは人は 行い正しく時を待たなければならない待つということは自らを破ることではない内に 静かに充たされつつ育つことだ
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「萩咲く」
むさしのの秋は 萩の花から来る
あるか なきかの風にゆれつつ小さい葉裏をかえすこのしなやかなる枝をみよ
萩はさからわず一切を 天地にまかせてかく 美しく 花ひらく
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「生きたるは」
生きたるは奇蹟でもなく 生命の神秘でもない生きたるは 一つの責である
病は五つあるとも 七つあるともどの一つもが 不治なりとも死んではならない ときに死ぬまい
生きたるは 一つの責務正しく死せんための 一つの証(あかし)正しき死にあってのみいかにして いのちを惜しまん
生きたるは一つの責不安と苦痛にも 麻薬を用いず正しき いのちの寿を守るため
生きたるは一つの愛さびしさにも 不幸にもいたずらに嘆かず自らのたましいを 汚さざるため
生きたるは奇蹟でもなく 生命の神秘でもない生きたるは唯一にして 無二の責務
かなしくも いまだ死に価することをせぬため
生きたるは おくればせても死に 価して死なんためなり
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「一つの声」
暗の中からきこえてくる一つの声がある生きてこの世に何を働けるぞ と私は 小さく遠慮がちに答えるああ 私は 何にも とたそがれ微風にゆれてひらく花一つよしんば色が美しくないとしても
衆に秀でたかおりを持つ一つの声はきくお前は生きて何をするぞ と私は答える 心 すましてわびしくも生くるこの一生に私はすぐれて何一つ出来なくても人を汚さず 自らをすてずねたまず 詫びず 静かに生くと
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「いのち新し」
あわい桔梗(ききょう)むらさき
その空のかなたのきびしい寒波
口をひらけば人々の不安を語るとき
わが庭のさくら小さく新芽をふくみ
乙女椿は かたく宝石ほどの蕾を待つ
自然は 新しい手のすべてを支度して
医者のごとく 風雪をしのぎゆく
その真剣にして備えある姿をみよ
私たちは いのちの尊厳を愛し
生きるに難しい今の世の現象にあわてず
信ずべきを信じ まっすぐに生きてゆく
そのことのいとなみに しっかり立とう
よしや落伍するものの一人であったにしても
その時までをつよく清らかに生きて
心静かに 死ぬべき時に死にたい
寒風と氷雪の中をしのいで
やがて花ひらく これらの花たちは
悲哀あるとき 最も立派なものの姿
ああ真の絶望を知らずして
どうして希望を語る資格があろう
おびえず あわてず
愛くるべき苦悩はもれなく受け
烈風の中に 毅然たる雄魂をもって
いま新しき世界に 生きよう
このとき 私たちは みんなだ
よわい おたがいの胸をつなげて
力のかぎり しのぎゆく
いのち新しき みんなだ