2023年 05月 15日
独りだけのウィルダーネス―アラスカ・森の生活 / リチャード・プローンネク
もし、ここで暮らしている間に重病に罹ったらどうしようかと、私はよく考えた。脚の骨を折ってしまったら? 大怪我をしたら? 虫垂炎になったら? きりなく湧いてくるそういう類の不安は、すぐに心から追いたてることにした。なぜ、まだ現実に起こってもいないことについて思いわずらわなければならないのか? これから起こるかもしれないことを不安がってばかりいるのは健全な時間の過ごし方ではない。人生の暗い影の部分ばかりを見つめて生きる人間は愚か者だ。潰瘍などというものも、たぶんそういった取り越し苦労のせいでできるのだろう。
世界から孤立する不安、時流に取り残される恐れ。そんなものはまるで感じなかった。ニュースはいつでも変わりばえのしない内容の繰り返しだ。同じような事件が違う人間たちの上に起こるだけにすぎない。私にとっては自分の身に起きることを十分に体験するほうが、見知らぬ他人に起きたことを読むよりもずっと重要だ。自分自身が新聞であり、ラジオなのだ。どう頑張ってみたところで、どのみち世界中のあらゆるニュースを見聞きすることなどできはしない。テレビのスイッチを入れた途端にアナウンサーや解説者がローカル、国内、海外とあらゆるニュースを際限なく吐き出してくる。新聞も同様のことをやっている。で、哀れな人間は、すぐにでも解決しなければならない自分自身のさまざまな問題に加えて、世界中が抱えた重荷まで背負わされてしまうというわけだ。
人間はほとんどどんな情況にもやがては慣れることのできる生き物だが、問題は人間が適応できる範囲を越えて、技術が先へ先へと進んでいってしまうことだ。このへんでそろそろブレーキをかけ始めるべき時が来ているんじゃないか、際限のない欲望に歯止めをかけて、世界の動きを緩くする時が来ているんじゃないかというのが私の考えだ。
最も単純なものが最も大きな歓びを与えてくれることを、私は発見した。さらにいいことには、単純なものには大した金もかからない。そして、こちらの感覚にスンナリとなじむ。たとえば夏の雨の後で摘む素晴らしく大きなブルーベリーの実。たとえば広い公園のようなハコヤナギの木立ちの中を歩くこと。金色に光りながら風に震える木の葉ごしに青空を垣間見ること。濡れた靴下を脱ぎ捨てて乾いた新しいウールの靴下に履き替える時の気持ち。そして、たとえば凍りつく寒さの中から戻ってきて震えながら焚火で暖をとること。この世界にはまだまだそういったものが残されている。
世間で言われているような形のものが進歩だというのなら、私はそんなものが大嫌いだ。誤った進歩を見せつけられるくらいなら、世界の始まりを眼にしたほうがずっといい。
この古いスプルースの切り株に腰をかけて、私は実に多くのものを見た。実に多くのことを考えた。考えれば考えるほど、ここでの生活が豊かで素晴らしいものに思えてきた。犯罪の発生率は限りなくゼロに近い。病気になるとか風邪をひくということがどういうことなのかさえ私は忘れている。本当に必要でもないアレやコレやを押しつけられて、あげくに毎月どっと押し寄せてくる請求書の支払いで頭を悩ますこともない。交通費もかからない。二本の脚とカヌーがあれば、どこでも好きな所へ行けるのだ。
向こうの段丘の上に木の枝のような物が現われ、ジッと眼をこらしているうちにやがて例の見事な角を持った雄のカリブーが全身を見せた。彼はあそこで何を考えているのだろう? 降り注ぐ太陽を全身に浴びて寝そべり、口をもぐもぐさせて何かを反芻しながら、ただボーッとしているだけなのだろうか? それとも、彼も私と同じ感慨にふけっているのだろうか? 世界のホンの一点にすぎないこの土地こそ、自分にとってかけがえのない、最も大切な場所だと。
by yamanomajo
| 2023-05-15 18:53
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