2024年 06月 01日
ヘンリー・ソローの日記 ― 見つめること
真に見られた場合の景色は、見る者の生に響き合う。いかに生きるか。最高の生活をどのようにして手に入れるか。この世界という花からどのようにして蜜を抽出するか。それが私の毎日の営みである。私はそれに取りかかっているミツバチと同じくらい忙しい。私はその使命を帯びてあらゆる草原を歩き回る。自分が蜜と蜜ろうでいっぱいであると感じるときほど幸せなことはない。私は、終日自然の芳香を探しているミツバチに似ている。私は花を受粉させ、花々を混合させ、自分の眼をこれからあれへと移すことによって、稀なるより素晴らしい様々なものを生み出していないだろうか。私は自分のハミングの音楽で自然に従い、喜びに満ちて、一日中蜜を探す。経験が私に与えてくれるその快い思考をたずさえて、自分の蜜房へ文字通り一直線に飛んでいく。私が吸いたいのは、花である。花のあるところに蜜があり、それは果実のネクタール(神酒)の部分であり、やがて果実ができあがる。まちがいなく花は、ハチを魅了し導くために彩られ表現されている。それなので美しさのこの夜明け、あるいは輝きによって、私たちはどこに思考、論議、行為の蜜と果実があるのかを知らされる。私たちは未来の果実の前ぶれである蜜を発見する前に、美しい花にまず魅了される。
一日を過ごす技能。私たちが呼びかけられることがあるなら、心を集中していることがふさわしい。昼夜終日じっと見つめることによって私が神聖なるものの跡を探すことができるのなら、じっと見つめることは価値あることではないだろうか。たえず見つめ、祈りなさい。しかし、悲しみのなかにおいてでなく。快活でありなさい。悲しみに席を譲ることのなかった喜びを私に与えよ。
人々はよい形で仕事に従事しておらず、それは一日の過ごし方ではない、と私は思う。もしも根気よくじっと見ることによって、新しい光を手にし、私自身がピスガの頂に一瞬のぼったように感じることができ、死んだ散文の世界が生き生きとした神聖なものになると感じることができるなら、私はつねに瞳を凝らし、今後は夜回りになるべきではないだろうか。もしも町の城壁で、まるまる一年間眺めることによって天との連絡を手にすることができるなら、店を閉じ、夜回りになるのが賢明ではないだろうか。若者そして人間にとって、自分の生活が見いだされるところへ行く以上に賢いことがあるだろうか。それは噂などではなく、ありうるものなのである。私たちは豊かで肥沃な神秘に取り巻かれているのだ。ほかの少しでもそれを突きとめ、覗き、それに従事することはできないものだろうか。あなたの生活を自然のなかの神聖さの発見に捧げるか、あるいは牡蠣(かき)を食べることに専心するか、それはまったく異なる結果をともなうのではないだろうか。
私を育てるであろうぶどう酒と水が、月の表面にあるのなら、それを求めて月に行くことに私は最善を尽くすだろう。
外国で私たちのする発見は特殊で限られたものである。故郷で私たちのする発見は、あらゆる部分にわたる広さがあり、意義深いものである。遠ければ遠いほど表面的になる。故郷に近ければ近いほど深くなる。命の泉を探しに行きなさい。そうすればあなたは十分に力を働かせることができるだろう。そうした泉が離れた牧草地で湧いているとき、それを探さず健康のためにダンベルを振っている男のことを考えていただきたい。ダンベルを振るといううわべの必要は、彼が道に迷っていることを示している。
自然のなかで私が見つける神聖な姿と形のすべてを待ち構え、叙述すること。私の仕事は心を配って自然のなかに神を見つけ、彼の潜んでいる場所を知り、自然のオラトリオとオペラすべてに出席することである。
ヘンリー・ソロー全日記 / 山口 晃 訳
by yamanomajo
| 2024-06-01 18:00
| 言葉・本