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星といのちのうた 人生のすべてが祈りでありますように

ヘンリー・ソローの日記 ― 詩的な生


私たちの生活を詩的にするにはどうしたらよいのか。もしも生活が詩的でないのなら、私たちが手にしているのは生ではなく死だから。


天文学者が天空の様子を見つめているように、詩人はいつも心の状態を見つめていなくてはならない。そのようにして誠実に過ごされた長い生活から、何かが生まれると考えてよいだろう。最も謙虚な観察者こそが、星が流れるのを見るだろう。

星の目録を作りなさい。彗星と同じくらい稀にしかその軌道が計算されない思考の目録を。それらが私の心に訪れるのかあなたの心に訪れるのか、流星は私の畑に落ちるのかそれともあなたの畑に落ちるのか、そうしたことが重要なのではなく、それが天空から来るということだけが重要なのである。

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詩人は結局、自分の心の状態を見つめながら生きる人である。年のいった詩人は、猫がネズミを見つめるくらいつぶさに最後は自分の心の状態を見つめるようになる。


私は普通のものを叙述する。これが最も魅力あるものであり、詩の真のテーマである。もしあなたが私に普通のことを経験させるなら、あなたは自分の領分で途方もないものをもっているのである。

人目のつかない生活、貧しい控えめな者の小屋、この世界での平日、不毛な草原を、私に与えよ。詩的な直観以外はどんなものも取り分は最小でよい。あなたが持っているものを見るための眼だけを、私に与えよ。

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(ソローが暮らした森の小屋)

荒れ地に見える風景と質素な生活を、神々しい色で描くことができるのは、なんという能力か。それは健全で強靭な想像力に基づき対応する、純粋で爽快な感覚である。それは詩人の場合ではないだろうか。

ほとんどの人々の知性は魅力を失っている。彼らは豊かにすることもされることもない。知性を実り豊かにする、つまり想像力を生み出すのは、魂と自然との結婚である。

主要な道路のように私たちに活気がなく干からびているとき、健全に育まれてきたある感覚が、私たちを自然との交信、自然との共感のなかに置くであろう。空気中に漂っている、受精のためのごくわずかの花粉が私たちに落ち、突然空が一つの虹になり、音楽、芳香、ゆかしさで満たされる。

知性だけの人、散文的な人は、不毛な雄蕊(ゆうずい)の花である。それに対して詩人は肥沃で申し分ない花である。人々は抜け目のない計算家であり、商業に依存する者であるので、私はドルやセントあるいはこういった目的のために赤線や青線の引いていない白紙の帳面を見つけるのが容易ではない。

人間の知的な性格と同じように、肉体的な性格もそのようではないだろうか。散文的人間と詩的人間とがともにもっている知的な性格を知ることからあなたは、どちらが最も生にしっかりついているか、しっかりと死をむかえじっくりと生きるか、どちらが最も頑強で動物的な強さをもっているか、どちらが最も穏やかな忍耐力をもっているかを、推論することができないだろうか。私はある程度推論できるように思う。


人は外を歩いていても、納屋の下を歩いている以上に空を見ないかもしれない。詩人は博物学者以上に野外にいる。あなたは屋外にいるとみなされている。しかし外のドアは開かれていても、内なるドアが閉まっているとしたらどうだろうか。あなたは、詮索好きであったり根掘り葉掘り聞いたり、熱心にものを見たりするのではなく、時には申し分なく自由に歩かねばならない。心と身体が純粋に広がるために、大気の特別な霊感のために、一日を費やしなさい。

植物における異形は、自然がその営みにおいていっそう真実で今まさに生きているものであることを感じさせる。あたかもそれらを生み出すのは別の自然であるかのように私は深く心動かされる。内に構想を抱いた詩人が生まれたよう。


詩人は汚れなく超然としていなくてはならない。詩人が横切って歩くのは想像力の国、妖精の国であって、町の意味のない境界線ではないようにしよう。想像力の旅は果てしないが、町の境界線はまったくちっぽけだ。


真にきっぱりと述べられる事実は、常識から抜け出して、神話的あるいは宇宙的な意義を手にする。そのような事実を言いなさい。そしてそれによって行動しなさい。実を結ばず、みずみずしい詩は感じられず、不能である、そうした科学の眼で見ないようにしなさい。しかし世界は味わい、じっくり消化しなさい。

あなたは散歩においてと同様に、思考においても人々に出会うことはないであろう。ものさびしい湿地や山頂におけるのと同じように、心のなかにこそ、私は私の生活を見出す。

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雲の形と色の美しさに立ち会うと、それらは私の想像力に訴えてくる。あなたはそれを私の想像力ではなく、科学的に理解させようと説明するだろう。しかし私が関心を抱くのはその美しさが暗示するもの、象徴である。科学の巧みさであなたがその美しさから象徴性を奪うなら、なんら有益ではないし、何も説明していない。

私はこれまでになかった、名状しがたいイメージを心に抱く。その神秘的な力の秘密にあなたは触れていない。あなたの説明のなかに神秘的なものが、理解では説明できない神秘的な要素がないなら、まったく不十分である。私の想像力に語りかけてくるものが何もないなら、いったい何だというのか。理解は増しても想像力を奪ってしまうとは、どういった科学なのか。それは理解に訴える仕方にすぎず、想像力に訴えていない。想像力が与えてくれる説明ではない。

もしこのようにすべてのことを機械的にだけ知るのなら、私たちは何かを真に知るといえるだろうか。

強く主張されることも、思い出されることも少なかったあなたの知っている物の見方、それをこそ、とりなさい。それに固執し、それを主張しなさい。その観点からあらゆるものを見なさい。あなたはそこで示される暗示を放っておいて、ドアの呼び鈴やノックする人のほうを見るのか。その暗示こそがあなたにとってまぎれもない原文なのである。他の人々のために話すのであってはならない。自分のために話しなさい。こうした暗示は、幻(ヴィジョン)のなかでのように、この世界そしてこの世界全体の諸々の領域をあなたに示す。だが、あなたは人形芝居を見るほうを好む。

あなたはいつも同質の心にのみ語り、ただ語るのではなく声高らかに語れば、その結果、あなたはもっと自分の生活の根拠を支えている考えを認め、それを生きることになるだろう。あなたの構想の高みへと自らを築き、若き日々の創造者を思い出し、人間への彼の示した道を正当と考え生活の目的は娯楽ではなくなるだろう。あなたの思考はあなたを聞く人がいないことを前提としているとしても、生と死を超える思考を語りなさい。

私たちは霊感を求めて上を向く。

ヘンリー・ソロー全日記 / 山口 晃 訳




by yamanomajo | 2024-07-15 10:30 | 言葉・本