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ウィトゲンシュタインの言葉


人が「神が世界を創造した」と言い、「神は絶えず世界を創造している」と言わないのは不思議なことだ。というのも“世界が始まった”ということが、なぜ、“世界があり続けている”ということよりも大きな奇跡でなければならないのか。
神が世界を創造したとして、今ここにある世界はいったい何なのか。創造されたその世界がまだ持続してここに存在しているほうがより大きな奇跡ではないだろうか。
いや、そもそも、世界の創造と持続は同じ一つのことではないか。
つまり、神はまだ世界に深く関わっている。

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科学というものが自然や人間を解明しているのだと本気で信じ込んでいる人は、やがて退屈になって眠気に襲われるだろう。
自然の成り立ちや仕組みがすべて科学によって説明されていると闇雲に信じ、自分にはその理屈はよくわからないながらもきっとそういうものだと信じきってしまった以上、自分で考えることも感じることもなくなり、何事にも飽き飽きしてくるからだ。
そういう人はもはや自然の現象に驚かなくなる。神秘に感動することがなくなる。そのあげく、怖さも畏れも失ってしまう。
やがて人間に対しても興味を失い、生きることがとても億劫になってしまうだろう。

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多くの人は神秘的な印象を与えてくれるものが好きだ。そして、周りに溢れていて見知った事柄を神秘的だと思うことすらない。
だから、昨晩に見た夢について語り、感性について語り、美だの愛だの思想だのについておしゃべりをする。しかし、自分の部屋の机や鉛筆については少しも語らない。
どうしてだろう。ふだんから使っている机や鉛筆や枕や靴だって、夢だの愛だの感性だのと同じくらい神秘的ではないだろうか。そんなありふれたものもまた神秘的だということもわからないのだろうか。

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マンネリになったこの日常にあきあきした私たちは、どこか遠くへ行けば何か特別な新しい体験ができると思いがちだ。何かもっと自分の人生にとって意味深い体験がどこかにあるはずだと夢想する。
しかし、他人が日常として暮らしている別の場所に行く必要などない。本当の謎はこの日常の中にたくさん埋もれているからだ。
決まった手順で安易にやりすごしている毎日の生活の中にこそ、人生と世界の深みはひそんでいる。そのことに気づいた時、私たちの日々はがらりと変わり、何もかもが新しくなる。

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「時間が経つ」
「時が過ぎ去る」
「時間の流れ」
「時間の浪費」
私たちはこのような言い方をし、このように信じている。
しかし、時間があたかも流れていくように感じてしまうのは、何かの過程、たとえば時計の針の動きという過程が添えられるときだけだ。
そういう別のものが添えられないかぎり、時間はそういうふうに流れていくことはない。

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太陽の熱ときれいな水、そして光が充分に与えられたときに芽が出てくるものだ。早く成長させようと力づくで引っ張っても、芽は出てこないどころか死んでしまう。
その扱い方は、他の事柄についても同じだ。

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本当に革新すべきは自分自身ではないのか。自分がすっかり新しくなれば、自分が取り巻く世界も変わるのだから。

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世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌する。
そして、君自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう。



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by yamanomajo | 2018-05-13 19:21 | 言葉

キルケゴールの言葉 2


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単独者として生きることは何よりも恐ろしいことだということを学んだ者は、単独者として生きることはもっとも偉大なことである、と言うにはばからないであろう。

・・・

一般に、孤独への要求は、人間のうちにはたしかに精神があるということのしるしをなし、またそこにある精神がどんなものかを測る尺度である。「ただおしゃべりだけをしている世間人」は、孤独への要求などを少しも感ぜず、ほんの一瞬間たりと一人でいなければならなくなると、ちょうど群棲鳥のように、直ちに死んでしまう程である。このような人々は、幼児が子守歌を歌って寝かしつけられなければならないのと同じように、食べたり、飲んだり、眠ったり、祈ったり、恋をしたりなどできるためには、社交という名の子守歌によって心に安心をうることを必要としているのである。しかし古代においても中世においても、人はこの孤独への要求を気づいていたし、また、それが意味するものへ尊敬をはらっていた。ところが、現代という社会そのものの時代においては、人は、孤独というものを、犯罪者に対する刑罰として以外にはそれを用いるすべを知らないほどに、それ程にまで恐れているのである。

・・・

世間では、元来、どうでもよいことだけが云々される。だから世間では、いつもこのどうでもよいことが一番問題となっているわけである。要するに、世俗性とはまさに、どうでもよいことに無限の価値を付与することそのことである。

・・・

公共とは誰もが身をもってそれに参与することを許されない幻である。

・・・

公共とは、一切にして無であり、それはあらゆる勢力のうちで最も危険なものであってしかも最も無意味なものである。人は公共の名において全国民に向かって語ることができるが、しかもその公共たるや、ただ一人の人間がどんなに少ないとしても、そのただ一人の現実の人間よりももっと少ないものである。公共という規定は、個人個人を奇術にかけて空想的にしてしまう反省の手品である。それというのも、この手品にかかると、各人が、それに比べると現実の具体性がみすぼらしく思えてくるこの巨大な怪物を、あえてわがものにすることができるからである。公共は、単独の人々を空想的に一民族を支配する帝王にもまして大いなるものたらしめるところの、分別の時代のおとぎ話である。しかし、公共はまた、それによって個々人が宗教的に教化されるところの、さもなくば没落していくところの、恐るべき抽象性である。

・・・

大衆は不真実である。その場合大衆というのは、この、または、あの大衆のことではない。生きている、または、死んでしまった大衆のことではない。卑しい、または、貴い大衆のことでもない。富める、または、貧しい大衆のことでもない。・・・概念として理解された大衆ということである。

大衆に関する虚構の第一は、まず実際には大衆の中の個々の人間がやっているにすぎないことを、あるいは、いかなる場合においても、結局は一人一人がしていることを、「大衆(みんな)」がやっているのだというふうにみなしてしまう点にある。それが虚構のわけは、そもそも「大衆」というものは、手などをもっていない抽象物だからである。

次に虚構の第二は、すべての個人のうちのもっとも臆病者でさえも大衆がそうである程には臆病であったためしは一度もなかったため、大衆にはそれをやってのける「勇気」があるというふうにみなしてしまう点にある。これが虚構であるわけは、大衆の中に逃げ込んでしまって、臆病にもひとりの個人であることを回避する人間は、大衆という「臆病そのもの」に自分の臆病を一枚加えることになるからである。

・・・

大衆は虚構である。そのためキリストは十字架につけられたもうた。なぜなら、キリストはすべての人々におもむいてゆかれたが、大衆とは決してかかわりあいになろうとはされなかったからであり、彼はいかなる仕方においても大衆を助けにもとうとされなかったからであり、彼は、この点に関しては無条件的に大衆から離れ、党派をつくろうとはせず、また投票を許さず、ただ彼自身であろうとされ、つまり、単独者に関わる真理であろうとされたからである。そこでこのゆえに、真実に真理に仕えようとする者は誰でも“それだけ”で何らかの意味において殉教者なのである。

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by yamanomajo | 2018-04-16 20:46 | 言葉

もと居た所 / 井亀あおい


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もう、ビルがふたつも建ってしまったね。ぼくにとっては、とても邪魔なんだよ。いいかい、マルセル。ぼくには見える、何もとらえどころのない、ぬっぺらぼうのビルが沢山建っている。それだけじゃ足りなくて、ビルとビルのすきまに小さな家が沢山建つ。それだけでも人間は足りないと言うんだよ。その家の中に家具を運びこむんだ。どの木のたんすがいい、とかどの布張りのディヴァンがいい、とか品定めしているけれど、結局同じだよ。運びこんだ家具に、またいろんなものをつめる。奥様方は、宝石がひとつなくなると総理大臣まで呼び出して探させるんだよ。だんな方は、愛書の金モールが少しとれたと言っては、一日中その古書とにらめっこするんだよ、ね、マルセル。ものがあんまり多すぎる。多すぎて、ほんとうのものが隠れてしまっているよ。ものをすべて取り去ったら、ほんとうのものが見えるのに。ものがあんまり多すぎるんだ。人間はまたビルを建てる。またひとつ、ほんとうのものを隠すものが増えてしまった。とても、邪魔なんだ。分かるね。邪魔に思えるんだ。

――ものが多すぎる。それに、人が多すぎる。それを取り去れば、ぼくらにはほんとうのものが見えるんだよ。でも、誰もそれを取り去ろうとはしないんだね。宝石ひとつ、金モールひとつなくしても大さわぎするんだね。火事で家がなくなっても、同じくらい泣いたり騒いだりするんだね。

人だって、多すぎる。みんな、自分が飾る鎧をどんどんつぎ足していって、しまいにはその鎧だけが残って、それで「人」だと思い込んでいる。“しん”までうわべの人間だのに。そんな人は、もう人じゃない。取り去ってしまわないと、ほんとうの人が見えないんだ。だのにみんな、うんと立派な鎧をつくりあげた「偉い人たち」をまつりあげて、そんな人を増やそうとしているんだ。子供は、まだいい。鎧なんかつくって、ほんとうの人を見えなくすることがないもの。でも、その子供も、自分の持っている人形がなくなると大声で泣くんだ。

――ぼくは覚えているよ、マルセル。ずっと以前、“ここではない”所に「真」があったことを。そこは、ほんとうに、今の“ここ”じゃなかった。でも確かにぼくはそこにいた。そこは、何もないよ。色彩、そうだね、夜が明ける時のように、向こうの方が明るくて、上の方は重々しくたれこめている。そんなところだ。まわりに人なんていない。ほんとうに何もないんだよ。そしてそこに「真」があったんだ。ぼくは覚えているよ。ぼくは確かにそこにいたことがある。

すべての、多すぎるものを取り去ってしまえば、あの以前の、そうだね、「もと居た場所」があらわれるんだ。そしてそこにある真が見えるんだ。すべてのものを取り去ってしまえば、だよ。ぼくらは「もと居た場所」の上に、バターか何かを塗るみたいにいらないものを厚くぬりつけて隠してしまったんだね。そして、それが「真」だと思っている。それが少しでも欠けると、もう泣き出すんだ。でも、ほんとうの「真」はすべてを取り去った所にあるんだ。どうしてみんな分からないんだろう。あの火事で、邪魔なものが少しなくなった。もう少し取り去ると、「もと居た場所」がすきまから見えてくるはずなんだ。ぼくは、火がいらないものを取り去るのを手伝おうとしたんだよ。ほんとうの空を隠している空をはぎ取ろうとしてね。でも、火は消されてしまったし、ぼくの手は空を少ししかはぎ取れなかった。みんな泣き叫んでいたよ。宝石や、金モールや、人形が燃えてしまったんだね。

――マルセル、すべてを取り去って何もなくなってしまったら、そこにこそ「真」があるんだ。ぼくら、そこに行きつけないはずはないんだよ。だって、「もと居た場所」なんだからね。すべてをとり去りさえすればいいんだ。とり去りさえすればいいんだよ。多すぎるもの、多すぎる人、うその空。うその地面をとり去りさえすれば。

でもね、宝石や金モールがなくなっただけであれほど泣くのなら、どうして人は真に出会えるだろうね。どうして、すべてのものを捨てずに「真」と出会えるだろうね。マルセル、とても哀しいよ。―

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by yamanomajo | 2018-04-06 19:26 | 言葉

ブッダのことば―スッタニパータ / 中村元


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“犀の角(サイのつの)”

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

子や妻に対する愛着は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならば、たとえば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

われらは実に朋友を得る幸せを褒め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。

実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍いであり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、―これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。犀の角のようにただ独り歩め。

相争う哲学的見解を超え、決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。

貪ることなく、偽ることなく、渇望することなく、見せかけで覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。

義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。

学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

「これは執着である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。

水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の煩悩の結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

俯して視、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り慎しみ、煩悩の流れ出ることなく、煩悩の火に焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

こころの五つの覆いを断ち切って、すべて付随して起る悪しき悩み煩悩を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過ちを絶ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。

以前に経験した楽しみと苦しみとを擲ち(なげうち)、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。

こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。

妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。

音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。

歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。

慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

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by yamanomajo | 2018-02-06 13:10 | 言葉

最後の日記 / J.クリシュナムルティ


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『死とは何だろう』

すがすがしい朝、真っ直ぐな道を歩いた。春で、空はこのうえもなく青かった。一片の雲もなく、太陽は暑すぎもせず、暖かだった。気分がよかった。木の葉は日に映え、大気には輝きがあった。ほんとうに考えられないほどの美しい朝だった。奥知れぬ高い山があり、その下の丘は緑に包まれて麗しかった。何も考えずに静かに歩みを進めてゆくと、黄と真紅に色づいた昨秋からの落葉が一枚眼に止まった。その落葉のなんと美しいことか。枯れたままで生き生きとしており、木全体と夏の持つ美と活力に溢れていた。朽ち果てていないのが奇妙だった。さらに眼をこらすと、その葉の葉脈や軸や形が見えた。葉はその木の全体だったのだ。

なぜ人間はこの木の葉のように自然に美しく死ねないのだろう? われわれはどこが間違っているのだろう? 医者や薬や病院や手術、それに生きる上の苦しみ、楽しみなど、もろもろのものがあるにもかかわらず、われわれは威厳と素朴さと微笑のある死に方ができないように思われる。

子供に計算や読み書きを教え、知識を蓄えさせるなら、いずれは対面しなければならない陰鬱な不幸なものとしてではなく、毎日の生活の中のものとして――青空や木の葉の上のキリギリスを眺める日常生活の一部として、死の偉大な尊厳をも教えなくてはならない。歯が生えたり、子供のかかる病のすべての不愉快さを味わうように、それは学びの一部分なのである。子供たちには並外れた好奇心がある。もし死の本質が分かるなら、すべてのものは死んで塵に帰るのだというような説明をしないで、恐怖心を持たないように優しく説明し、生きることと死ぬことはひとつであり――五十歳、六十歳、九十歳のあとの生の終わりでなく、死はあの木の葉のようなものだと子供たちに感じさせられるだろう。

死は常に理解しうるし、深く感じ取れるものだと思う。子供は好奇心が強いので、死は病や老衰や思いがけない事故で身体が駄目になってしまうだけのことではなく、毎日の終わりはまた毎日の自分自身の終わりでもあるのだということを理解させるように助けることができる。

この地上のあらゆるもの、この美しい地球上のあらゆるものは、生き、死に、生まれ来たり、凋み去る。このすべての生の動きを理解するには英知がいる。思考や本や知識の英知ではなく、感受性に富んだ愛と慈悲の英知である。もし教育者が死の意義とその尊厳、死ぬことの途方もない単純さを理解するなら――それも知的にではなく深く理解するなら――生徒や子供にはっきり伝えられるだろう。死ぬということ、終わりが来ることは避けるべきでなく、恐れるべきものでもなく、われわれの生の一部なのであり、したがって大人になるにつれて、終わりがあることを怖がることはなくなる、と。

あらゆる美と色彩をそなえたその落葉を眺めると、人の死というのは、それも生の終わりにではなくごくはじめから、どんなものでなくてはならないのかを、たぶん非常に深いところから理解し、気づくだろう。死とは何か恐ろしいものでも、逃げたり先に延ばしたりするものでもなく、日の明け暮れとともにあるものなのだ。そのことから、想像を絶した無限の感覚が訪れるのである。

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by yamanomajo | 2018-02-01 17:52 | 言葉

銀のしずく / 知里幸恵


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『アイヌ神謡集』序

その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。

冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ、嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。

太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方もまたいずこ、僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり、しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。

その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。

時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく、激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。

けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。

アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書き連ねました。

私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

大正十一年三月一日 知里幸恵

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by yamanomajo | 2017-12-16 09:03 | 言葉

神を待ちのぞむ / シモーヌ・ヴェイユ


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愛国主義というものに私は恐れを抱いております。私の申します愛国主義とは、この地上の祖国に付与されている感情を指しています。この種のいかなる感情も、私は、自分のために望みません。この種のいかなる感情も、その対象が何であれ、私にとって不吉なものだということを知っており、確信をもってそう感じているのです。

聖ルカ福音書にある、この世の諸王国に関してのキリストに対する悪魔の言葉ほど深くうがったことを、誰も言ったことも、書いたことも決してありませんでした。「私は、この権威と国々の栄華とをみんなあなたにあげましょう。なぜなら、これらの権威は私に任せられていて、誰でも好きな人にあげてよいのですから」。その結果、社会的なものは不可避的に悪魔の領域となるのであります。肉は「わたし」と言わせようとし、悪魔は「わたしたち」と言わせようとするのです。あるいは、専制者たちのように、集団的意味を含む「われ」という言葉を言わせるのです。そして、その固有の使命に応じて、悪魔は、聖なるもの、いや聖なるものの代用品の悪しき模倣を作り出すのです。

社会的ということは、ある国に関するあらゆることを意味するのではなく、ただ、集団的諸感情を意味しているのです。

ある環境の中に入ることが許され、「わたしたち」と呼び合うある環境の中に住み、この「わたしたち」の一部分となり、いかなる人間的環境であれ、その中で自分の家にいるように感じることを私は望みません。私はたった一人であり、例外なく、いかなる人間的環境とも無縁で、追放された状態にあることが、私にとっては必要ですし、また私に命じられたことであるという感じがいたします。

・・・

非常に大切な事柄においては、人は障害を飛び越えないのだと思います。じっと必要なだけ長く、それらの障害を見つめます。そして障害が、幻想のもろもろの力から生じたものである場合には、その障害が消え去るまでじっと見つめるのです。障害と私が呼びますものもそれは人が善に向かって踏み出す一歩一歩の段階で克服しなければならない一種の無気力状態とは別個のものであります。障害が消え去ってしまう前に、それを乗り越えようといたしますと、相殺の現象をおかす危険性があります。このことは、一人の男の家から一人の悪魔が去っていったところ、七人の悪魔が戻ってきたという福音書の一節が暗示していると思います。

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by yamanomajo | 2017-12-08 08:18 | 言葉

はなしっぱなし / 五十嵐大介 2


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「風景」には、風があります
風は動きつづけ 一瞬さえ 止まることをしません

好きな場所の
好きな光
好きな時間

もういちど味わおうと
狙って行っても 同じ風景は 二度となくて

そのかわりに
また別の おもいがけない出会いがある

興味を持ったら
どこでもいいです
気になる場所で10分間
じっとしていてみて下さい

必ず何かが起こります

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by yamanomajo | 2017-11-30 09:31 | 言葉

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 5


このうえなく親切でやさしい、けがれのない、心の励みになる交際相手は、自然界の事物のなかに発見できるものである。「自然」のまっただなかで暮らし、自分の五感をしっかりと失わないでいる人間は、ひどく暗い憂鬱症にとりつかれることなどあり得ない。かつては、健康でけがれのない耳には、どんな嵐も風神アイオロスの音楽のように聞こえたものだった。単純な、勇気のある人間は、なにがあろうとむやみに低俗な悲哀に打ちのめされたりはしない。四季を友として生きるかぎり、私はなにがあろうと人生を重荷と感じることはないだろう。

・・・

突然私は「自然」が――雨だれの音や、家のまわりのすべての音や光景が――とてもやさしい、情け深い交際仲間であることに気づき、たちまち筆舌につくしがたい無限の懐かしさがこみあげてきて、大気のように私を包み、人間が近くにいればなにかと好都合ではないかといった考えはすっかり無意味となってしまい、それ以来、二度と私をわずらわせることはなかった。マツの葉一本一本が共感にあふれて伸び、ふくらみ、友情の手をさし伸べていた。私は、荒々しくもわびしげなものと呼び慣わされている風景にも、自分との近縁関係をありありと感じるようになり、さらにまた、自分との血縁がいちばん近くて、なによりも人間的に思えるものは、人間でも村人でもないことがはっきりわかったので、もはやどんな場所へ行っても、二度と違和感をおぼえることはないだろうと思った。

・・・

私は、大部分の時間をひとりですごすのが健康的だと思っている。相手がいくら立派でも、人とつきあえばすぐに退屈するし、疲れてしまうものだ。私はひとりでいるのが好きだ。孤独ほどつきあいやすい友達には出会ったためしがない。

・・・

人間同士の交際は、一般にあまりにも安っぽすぎる。われわれは互いが益する新しい価値を身につけるためには、ろくに時間を使わなかったくせに、ほとんど間断なく顔を突き合わせている。一日三回、食事だといっては集まり、たがいに鼻もちならないカビの生えた古チーズ――つまりわれわれ自身――をそのつど相手に差し出す。われわれは郵便局や親睦会で、また、毎晩のように炉辺で顔を合わせる。われわれは肩を寄せあって暮らし、たがいに邪魔しあい、たがいにつまづきあう。思うに、こうしておたがいへの尊敬心を失っていくのだ。もっと出会いの回数を減らしたところで、たいせつな、心のこもったつきあいは十分可能であろうに。むしろ私が住んでいる場所のように、一平方マイルにひとりの住人しかいないほうがいい。人間の価値は皮膚にあるのだから、さわってみなくてはわからない、というわけではあるまい。

・・・

私の家のなかには、おおぜいの仲間がいるのである。とくに、訪れる人もいない午前中などは。私の置かれた状況を理解していただくために、二、三の比喩で説明してみよう。私は、けたたましい声で笑うアビやウォールデン湖そのものと同じように、少しも寂しくはない。ほう、あんな孤独な湖にどんな仲間がいるのかね? ところが、ある群青の湖水のなかには、青い陰気な悪魔ではなくて、青い衣の天使が住んでいるのだ。太陽だってひとりである。曇天のときにはふたりに見えることもあるが、ひとりはにせの太陽なのだ。神もひとりである。ところが悪魔となると、ひとりどころか無数の仲間に囲まれ、まさに大軍(レギオン)をなしている。私は牧場に咲く一本のモウズイカやタンポポ、マメの葉やスイバ、アブやマルハナバチと同じように、ちっとも寂しくはない。村の中心を流れるミル・ブルックや風見、北極星、南風、四月のにわか雨、一月の雪解け、新築の家にあらわれる最初のクモなどが寂しくないのと同じように、私も寂しくはないのだ。

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by yamanomajo | 2017-10-29 07:07 | 言葉

森の生活 / ヘンリー・D・ソロー 4


なぜわれわれは、こうもむきになって成功を急ぎ、事業に狂奔しなくてはならないのだろうか? ある男の歩調が仲間たちの歩調と合わないとすれば、それは彼がほかの鼓手のリズムを聞いているからであろう。めいめいが自分の耳に聞こえてくる音楽に合わせて歩を進めようではないか。それがどんな旋律であろうと、またどれほど遠くから聞こえてこようと。

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賢人に倣って、貧しさを庭園の香料植物(ハーブ)のように栽培しようではないか。衣服であれ友人であれ、新しいものを手に入れようと、あまりあくせくするべきではない。つねに古いものへと立ち返ろう。世間はちっとも変わりはしない。変わるのはわれわれのほうだ。

仮に私がクモのように、終日、屋根裏部屋の片隅に閉じ込められていたとしても、自分の思想を失わないでいるかぎり、世界は少しも狭くなりはしない。あまりむきになって新境地を拓こうとしたり、いろいろなものの感化力にたやすく翻弄されてはいけない。それではエネルギーを浪費するだけだ。謙遜は暗闇と同じように、天界の光をあらわにしてくれる。また、貧困によって諸君の活動範囲がせばめられてしまい、たとえば本や新聞が買えなくなったとしても、諸君はこのうえなく意味深い、生気あふれる経験の内部に閉じ込められるだけのことである。否応なく、砂糖と澱粉がいちばんたくさん取れる材料を扱うことになるのだ。物質的に低い暮らしをする人も、精神的に高い暮らしをすることによって失うものはなにもない。余分な富をもてば、余分なものが手に入るだけである。魂の必需品をあがなうのに金はいらない。

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私は行列に加わって、ひと目につく場所をこれ見よがしにパレードする気にはなれない。かなうことなら、ぜひ宇宙の「創造者」とともに歩みたいのだ。こんな落ち着きのない、神経質で、騒々しくて、こせこせした世紀に生きるのは気が進まないから、時代が通りすぎてゆくあいだ、物思いにふけりながら、立ちつくすなり座るなりしていたい。人々はいったい何を祝っているのだろうか? 全員がなにかの準備委員会に入り、毎時間、誰かが演説するのを待っている。神はその日の会長にすぎず、議員が神の代弁者というわけだ。

私は、みずから評価し、決断し、自分をもっとも強く、もっとも正しくひきつけるもののほうに向かって行きたい。秤の竿にぶらさがって、自分自身の目方を軽くしようとは思わない。ある状況を勝手に想像するのではなく、それをありのままに受け入れるようにするつもりだ。私がたどることのできるたった一本の、どんな権力も阻むことのできない道をたどって行きたい。

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私は実験によって、少なくとも次のことを学んだ。もし人が、みずからの夢の方向に自信をもって進み、頭に思い描いたとおりの人生を生きようとつとめるならば、ふだんは予想もしなかったほどの成功を収めることができる、ということだ。その人は、あるものは捨ててかえりみなくなり、目に見えない境界線を乗り越えるようになるだろう。新しい、普遍的でより自由な法則が、自分のまわりと内部とにしっかりとうち立てられるだろう。あるいは古い法則が拡大され、もっと自由な意味で自分にとって有利に解釈されるようになり、いわば高次の存在からの認可を得て生きることができるだろう。生活を単純化するにつれて、宇宙の法則は以前ほど複雑に思われなくなり、孤独は孤独でなく、貧乏は貧乏でなく、弱点は弱点でなくなるであろう。たとえ空中楼閣を築いてしまったとしても、その仕事が無駄になるわけではない。もともと楼閣は空中に築くものなのだ。今度はその下に基礎をかためる番である。

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by yamanomajo | 2017-10-28 12:49 | 言葉