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海獣の子供 4~5巻 / 五十嵐大介


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波も…
雲も…
わたしの目に見えるほとんどは
人間じゃない

世界の大部分は“人間じゃないもの”でできてるでしょう?
だからわたしは人間じゃないもののほうを多く見る。
でもどうやらそれはダメらしい…

世界を割合の通りに見ているだけなのに、
どうやら他の人たちは違うらしい…


・・・


ジムは死がキライだから。
いつも死を追い払おうとしている。
どうして?
形が変わるだけなのに。

生まれる
食べる
食べられる。
体の一部になる。
土になったり、
森になったり。
変わりながらぐるぐるまわる流れの中の一瞬にすぎないのに。

俺の中に「死」なんてなかったよ。
俺に「死」をくれたのはあなただ、ジム。

人間だけが「死」までの区切られた時空に閉じ込められている。
古くは違ったのに。


・・・


あの巨人が示しているのは“世界の姿”だ。
そういう神話があったろ?
世界が人体だとするなら僕らは中身…
山や海や生命はきっと内臓や血液なんだろう。
それは地球をひとつの機構(システム)として捉える考えと同じものだ。
はるか昔の人間は誰に教えられるでもなく、感覚的 経験的にその事を知っていた。
今でも本当はみんなが知っているはずなんだけど、意識のレベルにあがっていない。
何が違ってしまったのか…

ねえジム。
僕とあなたとの違いがわかる?
“言語”なんだ。
僕はごらんの通りおしゃべりだけど、言葉のない世界を持っている。
世界を受け止める事、認識する事を、言語に因らずしているんだ。
あのころと同じように…

言語は性能の悪い受像機みたいなもので、
世界の姿を粗すぎたり、ゆがめたり、ボヤかして見えにくくしてしまう。
“言語で考える”って事は決められた型に無理に押し込めて、
はみ出した部分は捨ててしまうという事なんだ。

鯨のうたや鳥の囀りアザラシの泳ぐ姿のほうが、
ずっと豊かに世界を表現している。
きっと昔は人類も同じだったはずだよ。
鯨たち…海の生物たちと同じ…
そのとき我々も…海そのものであり宇宙そのものだった…
かつて人間も…気高いケダモノであったのだ。

同じ“言葉”でも“詩の言葉”は音楽に近い。
僕はね、音楽や詩はこの宇宙のいたるところに満ちているものだと思う。
そしてきっと。
生命も同じところから来た…

今起こっている事は誕生の物語りだ。
“星のうた”もその事をうたっている。

僕たちは誕生の物語りの中にいる。


・・・


世界の秘密はヒントを、あるいはそれそのものを様々な形で現している。
鯨が抱く女神や、島の時をすり抜ける少年の姿を借りて。
海亀の瞳の色や、海岸の木の葉の形、風の肌触りを通して、
わたしたちに語りかけている。
お前の小さなてのひらの中にある物語りにも、世界は姿を借りて潜んでいる。

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by yamanomajo | 2018-07-11 19:39 | 言葉

海獣の子供 2~3巻 / 五十嵐大介


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この世界に在るもののうち、
僕ら人間に見えているものなんてほんの僅かしかないんだ。

宇宙を観測する技術が進んでわかったのは、
どんな方法でも観測できない“暗黒物質”があるという事。

宇宙の状態から暗黒物質が“ある”事だけは推測できる。
そしてその物質量の和は通常の物質の10倍以上かそれ以上…つまり、
宇宙の総質量の90%以上は正体不明の暗黒物質が占めている事になる。

僕たちは、何も見てないのと同じだ。
この世界は見えないもので満たされていて、
宇宙は僕たちに見えているよりずっとずっと広いんだよ。


・・・


俺は宇宙は人間に似てると思う。
…人間の中には、たくさんの記憶の小さな断片がバラバラに漂っていて…
何かのキッカケで、いくつかの記憶が結びつく…
その、ちょっと大きくなった記憶に、
更にいろいろな記憶が吸い寄せられて、結びついて大きくなっていく…

それが“考える”とか“思う”という事でしょう?
それはまるで…星の誕生、銀河の誕生する姿とそっくり…

…宇宙と人……


・・・


人間には理解できない、
そこにある事に気づく事すらできない秩序や価値や知があるかもしれないんだから。

どのような道を経て、今に至るかは違っても、
今 わたしたちのまわりにあるすべての存在は、
世界が生まれたときからきっかり同じだけの時間を経てここにある。

みんな対等だと思うけどね。
自分だけが頂点にいると思うのはマチガイだ。

あんたが見たのはほんの一部。
わたしたちはまだ何も知っちゃいない。
世界の何も見つけてない。
あまりに未知の事が多すぎて、全体像もその意味も、知るには至らない。


・・・


幽霊にもいろいろある。
「死者」の幽霊、「物」の幽霊と…「事」の幽霊…

わたしたちの言った事、した事は、風が水に皺を刻むようにこの世界に痕跡を残す。
それは形を変えながら拡がっていく。
鯨の歌の一節に形を変え…素粒子の振動の内に受け継がれる。

世界のどこかに永久に記憶された、わたしたちのした“事”
その痕跡を…「幽霊」と呼ぶ事もある。

ふとした瞬間にわたしたちは出会うのだ。
過去や未来の、“誰か”の記憶に…


・・・


光と水が体に浸み込んでくる…
そのときわたしの細胞とぶつかる音が、「記憶」を奏でる。
…記憶は伝わって伝わってわたしに届いて、わたしの気持ちをのせて。
また…伝わっていく…

この水は、どれだけの記憶を
蓄えているんだろう。

海底は無数の死体が降り積もってできた泥で覆われている…
それは…時間や記憶そのものだ…

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by yamanomajo | 2018-06-23 18:34 | 言葉

開かれた心 / バーナデット・ロバーツ


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「開かれた心」とは、自分の主観的な物の見方や、成長の妨害となるような見解・判断に執着しない精神です。それは他の観点や代案を見て、洞察や理解を――うまくいけば叡智をも――得ることができる精神です。

・・・そして、「開かれた心」への真の鍵は、判断そのものの停止にほかならないということです。ここでいう「判断」とは、私たちが物事を見るときのメガネという意味です。私たちはそのメガネを通して、人を自分の基準で裁き、良いとか悪いとか関心がないなどと品定めします。これも判断に違いありません。自分の観点に従って、物事がどうあらねばならないかを期待(判断)し続けるなら、物事を私たちの外部にあるものとして、ありのままに見ることはできません。このように期待するなら、時々刻々変化する他人をありのままに見ることができず、他者における変化と成長を無視することになってしまうでしょう――自分自身についてと同様に。最初に出会ったときの印象が最後まで変わらないということはよくありますが、それは、よかれあしかれ、私たちが最初のイメージにしがみついて変化を認めようとしないからです。つまり、イメージを形成すること自体、ある種の判断なのです。

こうした無意識の判断に終止符を打つことは、自分の偏った意見や限定的な見方に執着しなくなることです。それは、他人の悪口を言うこと(自分の評価を上げるための無意識的な戦略)をやめるとともに、各人の物の見方に正当性を認めることです。自分の見方に固着して、理解の共通基盤を見出せないなら、どんな会話もくだらないおしゃべりになり、時間の無駄になるだけでしょう。

私心のない客観的な精神で、他者の言うことに判断を交えず耳を傾けられるようになると、私たち一人ひとりの魂の中にある扉が開きます。その扉は神の道の理解へと続き、慈愛がおのずと湧き上がってきます。したがって、「開かれた心」がもたらす最大の効果は、偏見のない愛と言えるでしょう。それは、たんなる寛容や自己犠牲や忍耐の要請を超えるもので、曖昧な沈黙でもなく、そこには「自分は悟った」という感覚などこれっぽっちもありません。

こうした客観性が身につくと、私たちは好き嫌いを超えた地平に到達し、開かれた明晰な精神で他者と出会うことが可能になります。そこには、既成のイメージも、自己防衛的な姿勢もありません。自己防衛の姿勢をとるとき、私たちは自分の価値観を基準にしてあらゆる人を判断しているのです。こうした客観性があれば、心理的に、あるいは暗黙のうちに、相手に自分の流儀を押しつけることがないので、周囲の人々はのびのびと自分らしく、ありのままに振る舞うことができます。他者を自由にさせることで、私たち自身も自由になり、そしてこのように互いが自由である中で、真の関係性とコミュニケーションが生まれます。しかし、他者にこの自由を与えるためには、まず私たちが自分自身に安らいでいなければなりません。そして合一生活の目的とは、この安らぎを与えること、人間関係に欠くべからざるこの自由を与えることなのです。

・・・「開かれた心」を求めて努力するとき、私たちはこの目的に向かって前進しています。この客観性へ向けての努力は容易なものではありません。なぜならそれは、自分がもっていることさえ知らなかった概念や「お守り」を捨て去ることを意味するからです。

観想生活の全過程に目を向けると、内的な変容に続いて、意識のさらなる変容がやってくることがわかります。それは、意識の中身すべてを空にすることです。この展開は微妙なものですが、やがて「私―意識」の深い根を露呈させることになり、私たちを「自分」という感覚の終点、最後の痕跡にまで連れて行くでしょう。この目的地に至る道として、私は「開かれた心」以外のものを知りません。

・・・この段階における進歩は、太陽の光に反応してゆっくり花が開く様子に似ています。つぼみが閉じているときには知り得なかった理解と慈愛という花が開くのです。この開示は、魂の成長のプロセスであり、それは完全に美しく成熟し、花弁が開ききって落ちるまで続きます。そして、花はついに消滅し、一巡して初めに戻ります。中心から離れるこの動き、つまり自己から離れるこの運動は、合一生活の徳によって可能になります。実のところ、徳の完全な開花の目的とは、自己を終わらせることにほかなりません。しかし、ひとたび花が散ってしまえば、この徳――この内的活力または運動――は消滅し、自己はもはや存在しないのです。


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「開かれた心」に関する章で、私は「判断」という言葉を使っていますが、それは意識的に行われる道徳的判断のことではなく、心の自動的な識別作用を指しています。この無意識的な識別作用は、それ自体、微細な形態の判断なのですが、自己意識とあまりにも密接に結びついているため、この作用が停止すれば、自己意識も停止してしまうでしょう。一例をあげるなら、私たちは人と会ったとたん、反射的に自分自身を意識します。そしてこの反射(再帰)的な内省作用と共に、連想作用が働き始めます。けれども、私たちはこの微妙な識別作用を経ずに世界や人々を見られるようにならなければ、それらをありのままに見ることはできないのです。それまでは、それらを自分の中にあるイメージとして見ているだけであり、それはあるがままを見ることとはまったく異なります。私たちは、他者をまったく新たなものとして、あるいは初めて会ったときのように見ることができなければ、他者の中にも自分自身の中にも変化を起こすことはできません。ですから、私が今述べている微妙なかたちの識別作用は、より完全な慈愛、同情、赦し、正義などを求めるうえでの妨げになるのです。

ここで理解すべき重要な点は、この瞬時に反応する意識は対象を自動的な識別するということです。こうした識別作用を行っているさなかにその心に気づくようになるなら、私たちはやがて、心が自らを意識する行為の真っ最中に、その心をつかまえられるようになるでしょう。私がこの章で述べておきたかったのは、心には自動的な無意識の活動があり、その活動において、識別作用と自己意識は別物ではない(すなわち、識別作用の停止は自己意識の停止に等しい)ということの発見だったのです。

そのときは気づかないかもしれませんが、この発見は、やがて訪れる自己意識の停止に向けての重要な洞察ないし準備となります。この識別作用は、当初は微細なレベルでの判断であるように思われますが、やがて、微細なレベルでの自己意識であることが判明するのです。

神はいずこに―キリスト教における悟りとその超越 / バーナデット・ロバーツ

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by yamanomajo | 2018-06-21 20:08 | 言葉

いと低きもの / クリスティアン・ボバン


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愛には進歩もないし、いつの日か到達できる完璧さもありはしない。成熟し、理性にかなった、大人の愛などない。愛の前ではだれひとり大人ではなく、子供でしかありえない。放棄であり、無頓着であり、精神喪失の精神である子供の精神でしかありえない。

年齢は加算される。経験は積み重なる。理性は建設する。だが、子供の精神は数えず、積み上げず、築かない。つねに新しく、つねに世界のはじまりに向けて、愛の最初の歩みに向けて再出発する。

理性の人は、積み重ねられ、積み上げられ、建設された人間だ。幼年の人は、自分に加算する人間の逆、自分を脱し、すべてのまったき誕生において再生する人間である。球で遊ぶ愚者。あるいは、自分の神に話しかける聖者。あるいは、その両方。

この世界には、世界に逆らう何かがあって、この何かは、教会のなかにも、文化のなかにも存在せず、人間が自分について持つ考えのなかにも、人間が真面目で大人で理性的な存在である自分について持つ致命的な信仰のなかにも存在せず、それはものではなく、神であり、神はどんな場所にあっても、すぐにその場所を揺るがし、打ち壊してしまう。

巨大な神は、幼年期の繰り返しのなか、貧者たちの流した血のなか、素朴なものたちの声のなかにしか、その身を保ちえない。そうしたものたちは総出で、自分の開かれた掌に神をすくう。雨に打たれたパンのようにびしょ濡れになり、震え、鳴き叫ぶこの雀をすくう。泣きわめきながら、裸の手のなかに餌を食べに来るこの神をすくう。

神とは、大人には知りえず、子供が知るものである。

大人には、雀に餌をやり、時間を無駄にしている暇がないのだ。

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by yamanomajo | 2018-05-31 19:41 | 言葉

ウィトゲンシュタインの言葉


人が「神が世界を創造した」と言い、「神は絶えず世界を創造している」と言わないのは不思議なことだ。というのも“世界が始まった”ということが、なぜ、“世界があり続けている”ということよりも大きな奇跡でなければならないのか。
神が世界を創造したとして、今ここにある世界はいったい何なのか。創造されたその世界がまだ持続してここに存在しているほうがより大きな奇跡ではないだろうか。
いや、そもそも、世界の創造と持続は同じ一つのことではないか。
つまり、神はまだ世界に深く関わっている。

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科学というものが自然や人間を解明しているのだと本気で信じ込んでいる人は、やがて退屈になって眠気に襲われるだろう。
自然の成り立ちや仕組みがすべて科学によって説明されていると闇雲に信じ、自分にはその理屈はよくわからないながらもきっとそういうものだと信じきってしまった以上、自分で考えることも感じることもなくなり、何事にも飽き飽きしてくるからだ。
そういう人はもはや自然の現象に驚かなくなる。神秘に感動することがなくなる。そのあげく、怖さも畏れも失ってしまう。
やがて人間に対しても興味を失い、生きることがとても億劫になってしまうだろう。

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多くの人は神秘的な印象を与えてくれるものが好きだ。そして、周りに溢れていて見知った事柄を神秘的だと思うことすらない。
だから、昨晩に見た夢について語り、感性について語り、美だの愛だの思想だのについておしゃべりをする。しかし、自分の部屋の机や鉛筆については少しも語らない。
どうしてだろう。ふだんから使っている机や鉛筆や枕や靴だって、夢だの愛だの感性だのと同じくらい神秘的ではないだろうか。そんなありふれたものもまた神秘的だということもわからないのだろうか。

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マンネリになったこの日常にあきあきした私たちは、どこか遠くへ行けば何か特別な新しい体験ができると思いがちだ。何かもっと自分の人生にとって意味深い体験がどこかにあるはずだと夢想する。
しかし、他人が日常として暮らしている別の場所に行く必要などない。本当の謎はこの日常の中にたくさん埋もれているからだ。
決まった手順で安易にやりすごしている毎日の生活の中にこそ、人生と世界の深みはひそんでいる。そのことに気づいた時、私たちの日々はがらりと変わり、何もかもが新しくなる。

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「時間が経つ」
「時が過ぎ去る」
「時間の流れ」
「時間の浪費」
私たちはこのような言い方をし、このように信じている。
しかし、時間があたかも流れていくように感じてしまうのは、何かの過程、たとえば時計の針の動きという過程が添えられるときだけだ。
そういう別のものが添えられないかぎり、時間はそういうふうに流れていくことはない。

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太陽の熱ときれいな水、そして光が充分に与えられたときに芽が出てくるものだ。早く成長させようと力づくで引っ張っても、芽は出てこないどころか死んでしまう。
その扱い方は、他の事柄についても同じだ。

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本当に革新すべきは自分自身ではないのか。自分がすっかり新しくなれば、自分が取り巻く世界も変わるのだから。

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世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌する。
そして、君自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう。



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by yamanomajo | 2018-05-13 19:21 | 言葉

キルケゴールの言葉 2


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単独者として生きることは何よりも恐ろしいことだということを学んだ者は、単独者として生きることはもっとも偉大なことである、と言うにはばからないであろう。

・・・

一般に、孤独への要求は、人間のうちにはたしかに精神があるということのしるしをなし、またそこにある精神がどんなものかを測る尺度である。「ただおしゃべりだけをしている世間人」は、孤独への要求などを少しも感ぜず、ほんの一瞬間たりと一人でいなければならなくなると、ちょうど群棲鳥のように、直ちに死んでしまう程である。このような人々は、幼児が子守歌を歌って寝かしつけられなければならないのと同じように、食べたり、飲んだり、眠ったり、祈ったり、恋をしたりなどできるためには、社交という名の子守歌によって心に安心をうることを必要としているのである。しかし古代においても中世においても、人はこの孤独への要求を気づいていたし、また、それが意味するものへ尊敬をはらっていた。ところが、現代という社会そのものの時代においては、人は、孤独というものを、犯罪者に対する刑罰として以外にはそれを用いるすべを知らないほどに、それ程にまで恐れているのである。

・・・

世間では、元来、どうでもよいことだけが云々される。だから世間では、いつもこのどうでもよいことが一番問題となっているわけである。要するに、世俗性とはまさに、どうでもよいことに無限の価値を付与することそのことである。

・・・

公共とは誰もが身をもってそれに参与することを許されない幻である。

・・・

公共とは、一切にして無であり、それはあらゆる勢力のうちで最も危険なものであってしかも最も無意味なものである。人は公共の名において全国民に向かって語ることができるが、しかもその公共たるや、ただ一人の人間がどんなに少ないとしても、そのただ一人の現実の人間よりももっと少ないものである。公共という規定は、個人個人を奇術にかけて空想的にしてしまう反省の手品である。それというのも、この手品にかかると、各人が、それに比べると現実の具体性がみすぼらしく思えてくるこの巨大な怪物を、あえてわがものにすることができるからである。公共は、単独の人々を空想的に一民族を支配する帝王にもまして大いなるものたらしめるところの、分別の時代のおとぎ話である。しかし、公共はまた、それによって個々人が宗教的に教化されるところの、さもなくば没落していくところの、恐るべき抽象性である。

・・・

大衆は不真実である。その場合大衆というのは、この、または、あの大衆のことではない。生きている、または、死んでしまった大衆のことではない。卑しい、または、貴い大衆のことでもない。富める、または、貧しい大衆のことでもない。・・・概念として理解された大衆ということである。

大衆に関する虚構の第一は、まず実際には大衆の中の個々の人間がやっているにすぎないことを、あるいは、いかなる場合においても、結局は一人一人がしていることを、「大衆(みんな)」がやっているのだというふうにみなしてしまう点にある。それが虚構のわけは、そもそも「大衆」というものは、手などをもっていない抽象物だからである。

次に虚構の第二は、すべての個人のうちのもっとも臆病者でさえも大衆がそうである程には臆病であったためしは一度もなかったため、大衆にはそれをやってのける「勇気」があるというふうにみなしてしまう点にある。これが虚構であるわけは、大衆の中に逃げ込んでしまって、臆病にもひとりの個人であることを回避する人間は、大衆という「臆病そのもの」に自分の臆病を一枚加えることになるからである。

・・・

大衆は虚構である。そのためキリストは十字架につけられたもうた。なぜなら、キリストはすべての人々におもむいてゆかれたが、大衆とは決してかかわりあいになろうとはされなかったからであり、彼はいかなる仕方においても大衆を助けにもとうとされなかったからであり、彼は、この点に関しては無条件的に大衆から離れ、党派をつくろうとはせず、また投票を許さず、ただ彼自身であろうとされ、つまり、単独者に関わる真理であろうとされたからである。そこでこのゆえに、真実に真理に仕えようとする者は誰でも“それだけ”で何らかの意味において殉教者なのである。

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by yamanomajo | 2018-04-16 20:46 | 言葉

もと居た所 / 井亀あおい


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もう、ビルがふたつも建ってしまったね。ぼくにとっては、とても邪魔なんだよ。いいかい、マルセル。ぼくには見える、何もとらえどころのない、ぬっぺらぼうのビルが沢山建っている。それだけじゃ足りなくて、ビルとビルのすきまに小さな家が沢山建つ。それだけでも人間は足りないと言うんだよ。その家の中に家具を運びこむんだ。どの木のたんすがいい、とかどの布張りのディヴァンがいい、とか品定めしているけれど、結局同じだよ。運びこんだ家具に、またいろんなものをつめる。奥様方は、宝石がひとつなくなると総理大臣まで呼び出して探させるんだよ。だんな方は、愛書の金モールが少しとれたと言っては、一日中その古書とにらめっこするんだよ、ね、マルセル。ものがあんまり多すぎる。多すぎて、ほんとうのものが隠れてしまっているよ。ものをすべて取り去ったら、ほんとうのものが見えるのに。ものがあんまり多すぎるんだ。人間はまたビルを建てる。またひとつ、ほんとうのものを隠すものが増えてしまった。とても、邪魔なんだ。分かるね。邪魔に思えるんだ。

――ものが多すぎる。それに、人が多すぎる。それを取り去れば、ぼくらにはほんとうのものが見えるんだよ。でも、誰もそれを取り去ろうとはしないんだね。宝石ひとつ、金モールひとつなくしても大さわぎするんだね。火事で家がなくなっても、同じくらい泣いたり騒いだりするんだね。

人だって、多すぎる。みんな、自分が飾る鎧をどんどんつぎ足していって、しまいにはその鎧だけが残って、それで「人」だと思い込んでいる。“しん”までうわべの人間だのに。そんな人は、もう人じゃない。取り去ってしまわないと、ほんとうの人が見えないんだ。だのにみんな、うんと立派な鎧をつくりあげた「偉い人たち」をまつりあげて、そんな人を増やそうとしているんだ。子供は、まだいい。鎧なんかつくって、ほんとうの人を見えなくすることがないもの。でも、その子供も、自分の持っている人形がなくなると大声で泣くんだ。

――ぼくは覚えているよ、マルセル。ずっと以前、“ここではない”所に「真」があったことを。そこは、ほんとうに、今の“ここ”じゃなかった。でも確かにぼくはそこにいた。そこは、何もないよ。色彩、そうだね、夜が明ける時のように、向こうの方が明るくて、上の方は重々しくたれこめている。そんなところだ。まわりに人なんていない。ほんとうに何もないんだよ。そしてそこに「真」があったんだ。ぼくは覚えているよ。ぼくは確かにそこにいたことがある。

すべての、多すぎるものを取り去ってしまえば、あの以前の、そうだね、「もと居た場所」があらわれるんだ。そしてそこにある真が見えるんだ。すべてのものを取り去ってしまえば、だよ。ぼくらは「もと居た場所」の上に、バターか何かを塗るみたいにいらないものを厚くぬりつけて隠してしまったんだね。そして、それが「真」だと思っている。それが少しでも欠けると、もう泣き出すんだ。でも、ほんとうの「真」はすべてを取り去った所にあるんだ。どうしてみんな分からないんだろう。あの火事で、邪魔なものが少しなくなった。もう少し取り去ると、「もと居た場所」がすきまから見えてくるはずなんだ。ぼくは、火がいらないものを取り去るのを手伝おうとしたんだよ。ほんとうの空を隠している空をはぎ取ろうとしてね。でも、火は消されてしまったし、ぼくの手は空を少ししかはぎ取れなかった。みんな泣き叫んでいたよ。宝石や、金モールや、人形が燃えてしまったんだね。

――マルセル、すべてを取り去って何もなくなってしまったら、そこにこそ「真」があるんだ。ぼくら、そこに行きつけないはずはないんだよ。だって、「もと居た場所」なんだからね。すべてをとり去りさえすればいいんだ。とり去りさえすればいいんだよ。多すぎるもの、多すぎる人、うその空。うその地面をとり去りさえすれば。

でもね、宝石や金モールがなくなっただけであれほど泣くのなら、どうして人は真に出会えるだろうね。どうして、すべてのものを捨てずに「真」と出会えるだろうね。マルセル、とても哀しいよ。―

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by yamanomajo | 2018-04-06 19:26 | 言葉

ブッダのことば―スッタニパータ / 中村元


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“犀の角(サイのつの)”

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

子や妻に対する愛着は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならば、たとえば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

われらは実に朋友を得る幸せを褒め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。

実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍いであり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、―これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。犀の角のようにただ独り歩め。

相争う哲学的見解を超え、決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。

貪ることなく、偽ることなく、渇望することなく、見せかけで覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。

義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。

学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

「これは執着である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。

水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の煩悩の結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

俯して視、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り慎しみ、煩悩の流れ出ることなく、煩悩の火に焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

こころの五つの覆いを断ち切って、すべて付随して起る悪しき悩み煩悩を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過ちを絶ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。

以前に経験した楽しみと苦しみとを擲ち(なげうち)、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。

こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。

妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。

音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。

歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。

慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

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by yamanomajo | 2018-02-06 13:10 | 言葉

最後の日記 / J.クリシュナムルティ


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『死とは何だろう』

すがすがしい朝、真っ直ぐな道を歩いた。春で、空はこのうえもなく青かった。一片の雲もなく、太陽は暑すぎもせず、暖かだった。気分がよかった。木の葉は日に映え、大気には輝きがあった。ほんとうに考えられないほどの美しい朝だった。奥知れぬ高い山があり、その下の丘は緑に包まれて麗しかった。何も考えずに静かに歩みを進めてゆくと、黄と真紅に色づいた昨秋からの落葉が一枚眼に止まった。その落葉のなんと美しいことか。枯れたままで生き生きとしており、木全体と夏の持つ美と活力に溢れていた。朽ち果てていないのが奇妙だった。さらに眼をこらすと、その葉の葉脈や軸や形が見えた。葉はその木の全体だったのだ。

なぜ人間はこの木の葉のように自然に美しく死ねないのだろう? われわれはどこが間違っているのだろう? 医者や薬や病院や手術、それに生きる上の苦しみ、楽しみなど、もろもろのものがあるにもかかわらず、われわれは威厳と素朴さと微笑のある死に方ができないように思われる。

子供に計算や読み書きを教え、知識を蓄えさせるなら、いずれは対面しなければならない陰鬱な不幸なものとしてではなく、毎日の生活の中のものとして――青空や木の葉の上のキリギリスを眺める日常生活の一部として、死の偉大な尊厳をも教えなくてはならない。歯が生えたり、子供のかかる病のすべての不愉快さを味わうように、それは学びの一部分なのである。子供たちには並外れた好奇心がある。もし死の本質が分かるなら、すべてのものは死んで塵に帰るのだというような説明をしないで、恐怖心を持たないように優しく説明し、生きることと死ぬことはひとつであり――五十歳、六十歳、九十歳のあとの生の終わりでなく、死はあの木の葉のようなものだと子供たちに感じさせられるだろう。

死は常に理解しうるし、深く感じ取れるものだと思う。子供は好奇心が強いので、死は病や老衰や思いがけない事故で身体が駄目になってしまうだけのことではなく、毎日の終わりはまた毎日の自分自身の終わりでもあるのだということを理解させるように助けることができる。

この地上のあらゆるもの、この美しい地球上のあらゆるものは、生き、死に、生まれ来たり、凋み去る。このすべての生の動きを理解するには英知がいる。思考や本や知識の英知ではなく、感受性に富んだ愛と慈悲の英知である。もし教育者が死の意義とその尊厳、死ぬことの途方もない単純さを理解するなら――それも知的にではなく深く理解するなら――生徒や子供にはっきり伝えられるだろう。死ぬということ、終わりが来ることは避けるべきでなく、恐れるべきものでもなく、われわれの生の一部なのであり、したがって大人になるにつれて、終わりがあることを怖がることはなくなる、と。

あらゆる美と色彩をそなえたその落葉を眺めると、人の死というのは、それも生の終わりにではなくごくはじめから、どんなものでなくてはならないのかを、たぶん非常に深いところから理解し、気づくだろう。死とは何か恐ろしいものでも、逃げたり先に延ばしたりするものでもなく、日の明け暮れとともにあるものなのだ。そのことから、想像を絶した無限の感覚が訪れるのである。

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by yamanomajo | 2018-02-01 17:52 | 言葉

銀のしずく / 知里幸恵


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『アイヌ神謡集』序

その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。

冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ、嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。

太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方もまたいずこ、僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり、しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。

その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。

時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく、激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。

けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。

アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書き連ねました。

私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

大正十一年三月一日 知里幸恵

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by yamanomajo | 2017-12-16 09:03 | 言葉