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苦しみについて / ハリール・ジブラーン
2018年 02月 23日
「苦しみについて」
苦しみについてお話し下さい、とある女が言った。
彼は答えた。
あなたの苦しみはあなたの心の中の
英知をとじこめている外皮(から)を破るもの。
果実の核(たね)が割れると中身が陽を浴びるように
あなたも苦しみを知らなくてはならない。
あなたの生命(いのち)に日々起こる奇跡
その奇跡に驚きの心を抱きつづけられるならば
あなたの苦しみはよろこびと同じく
おどろくべきものに見えてくるだろう。
そしてあなたの心のいろいろな季節をそのまま
受け入れられるだろう。ちょうど野の上に
過ぎゆく各季節を受け入れてきたように。
あなたの悲しみの冬の日々をも
静かな心で眺められることだろう。
あなたの苦しみの多くは自ら選んだもの。
あなたの内なる薬師(くすし)が
病める自己を癒やそうとして飲ませる苦い薬。
だから薬師を信頼して
黙ってしずかに薬を飲みなさい。
薬師の手がたとえ重く容赦なくとも
それは目に見えぬもののやさしい手に導かれている。
彼が与える杯がたとえあなたの唇を焼こうとも
それは大いなる焼物師が
自らの聖なる涙でしめらせた
その粘土でつくられたものなのだ。
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by yamanomajo
| 2018-02-23 09:18
| 詩
クリーミーマッシュポテト
2018年 02月 18日







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by yamanomajo
| 2018-02-18 20:00
| 食
ひとしずく
2018年 02月 09日
枝から垂れる一滴のなかに、
空があり、
雲があり、
太陽があり、
風があり、
大地があり、
山があり、
川があり、
海があり、
光があり、
星があり、
月があり、
銀河があり、
全宇宙がある。
限りない生命の糸、つながり。
時を超えた永遠。
今ここには、
過去もなく未来もない。
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by yamanomajo
| 2018-02-09 12:28
| ある時
ブッダのことば―スッタニパータ / 中村元
2018年 02月 06日
“犀の角(サイのつの)”
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
子や妻に対する愛着は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。
しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならば、たとえば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
われらは実に朋友を得る幸せを褒め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍いであり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、―これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。犀の角のようにただ独り歩め。
相争う哲学的見解を超え、決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。
貪ることなく、偽ることなく、渇望することなく、見せかけで覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
「これは執着である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。
水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の煩悩の結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
俯して視、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り慎しみ、煩悩の流れ出ることなく、煩悩の火に焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。
こころの五つの覆いを断ち切って、すべて付随して起る悪しき悩み煩悩を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過ちを絶ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。
以前に経験した楽しみと苦しみとを擲ち(なげうち)、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。
妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。
慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
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by yamanomajo
| 2018-02-06 13:10
| 言葉
永遠の昔から
2018年 02月 03日

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by yamanomajo
| 2018-02-03 11:50
| 思い
最後の日記 / J.クリシュナムルティ
2018年 02月 01日
『死とは何だろう』
すがすがしい朝、真っ直ぐな道を歩いた。春で、空はこのうえもなく青かった。一片の雲もなく、太陽は暑すぎもせず、暖かだった。気分がよかった。木の葉は日に映え、大気には輝きがあった。ほんとうに考えられないほどの美しい朝だった。奥知れぬ高い山があり、その下の丘は緑に包まれて麗しかった。何も考えずに静かに歩みを進めてゆくと、黄と真紅に色づいた昨秋からの落葉が一枚眼に止まった。その落葉のなんと美しいことか。枯れたままで生き生きとしており、木全体と夏の持つ美と活力に溢れていた。朽ち果てていないのが奇妙だった。さらに眼をこらすと、その葉の葉脈や軸や形が見えた。葉はその木の全体だったのだ。
なぜ人間はこの木の葉のように自然に美しく死ねないのだろう? われわれはどこが間違っているのだろう? 医者や薬や病院や手術、それに生きる上の苦しみ、楽しみなど、もろもろのものがあるにもかかわらず、われわれは威厳と素朴さと微笑のある死に方ができないように思われる。
子供に計算や読み書きを教え、知識を蓄えさせるなら、いずれは対面しなければならない陰鬱な不幸なものとしてではなく、毎日の生活の中のものとして――青空や木の葉の上のキリギリスを眺める日常生活の一部として、死の偉大な尊厳をも教えなくてはならない。歯が生えたり、子供のかかる病のすべての不愉快さを味わうように、それは学びの一部分なのである。子供たちには並外れた好奇心がある。もし死の本質が分かるなら、すべてのものは死んで塵に帰るのだというような説明をしないで、恐怖心を持たないように優しく説明し、生きることと死ぬことはひとつであり――五十歳、六十歳、九十歳のあとの生の終わりでなく、死はあの木の葉のようなものだと子供たちに感じさせられるだろう。
死は常に理解しうるし、深く感じ取れるものだと思う。子供は好奇心が強いので、死は病や老衰や思いがけない事故で身体が駄目になってしまうだけのことではなく、毎日の終わりはまた毎日の自分自身の終わりでもあるのだということを理解させるように助けることができる。
この地上のあらゆるもの、この美しい地球上のあらゆるものは、生き、死に、生まれ来たり、凋み去る。このすべての生の動きを理解するには英知がいる。思考や本や知識の英知ではなく、感受性に富んだ愛と慈悲の英知である。もし教育者が死の意義とその尊厳、死ぬことの途方もない単純さを理解するなら――それも知的にではなく深く理解するなら――生徒や子供にはっきり伝えられるだろう。死ぬということ、終わりが来ることは避けるべきでなく、恐れるべきものでもなく、われわれの生の一部なのであり、したがって大人になるにつれて、終わりがあることを怖がることはなくなる、と。
あらゆる美と色彩をそなえたその落葉を眺めると、人の死というのは、それも生の終わりにではなくごくはじめから、どんなものでなくてはならないのかを、たぶん非常に深いところから理解し、気づくだろう。死とは何か恐ろしいものでも、逃げたり先に延ばしたりするものでもなく、日の明け暮れとともにあるものなのだ。そのことから、想像を絶した無限の感覚が訪れるのである。
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by yamanomajo
| 2018-02-01 17:52
| 言葉
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